オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(10/5)長谷川洸
第18回 長谷川洸
『サッカー人生で一番つらかった時期の出会いが運命を変えた』
文=上岡真里江(フリーライター)
あまりにも衝撃的だった。一つの出会いで、こんなにもすべてが大きく変わってしまうとは……。
東京ヴェルディユースで高校の1、2年を過ごしたが、「一度も試合のメンバーに入ったことはありませんでした」。1年時には、練習試合にすら出られなかったため、ヴェルディ公認支部である『ヴェルディS.S.相模原』に籍を置き、S.S.相模原の試合に出ていたほどであった。
「正直、あの時はヴェルディユースの一員だとは思っていなかったです。部外者というか、練習参加をしている他チームの子みたいだなと思いながら毎日を過ごしていました。本当に精神的にきつくて、いつ辞めようかと思いながら、でも、絶対に負けたくないという思いだけで続けていた」
“鬱に近い状態”だったと、本人は当時を思い出し、苦い顔で笑った。
「このままユースの3年間で1試合も、1分も公式戦に出られずに終わるんだろうな」。そんな絶望的な日々に終止符が打たれたのは、高校3年生になった時だった。新たに育成GKコーチに、前年(2012年)まで現役だった土肥洋一氏が就任したのである。
「トガさん(冨樫剛一・当時ユース監督)から、元日本代表で、『ワールドカップメンバー。Jリーグでも216試合連続出場記録を持っている、今現在(当時)日本一のGKコーチに教えてもらっているのだから、しっかりと吸収しろ』と言われて、改めてすごいことだと思いました」――。
さらにそのタイミングで、それまでレギュラーとして起用されていたGK、1個下の有望株GKがともにケガで戦線離脱を余儀なくされた上、新一年生GKも受験で練習不参加。長谷川は、その“日本一GKコーチ”から、ほぼマンツーマン指導を受ける幸運に恵まれた。その日から、すべてが180度変わっていった。
試合に出られるようになったことはもちろんだったが、それ以上に、毎日の練習が楽しくてたまらなかった。指導を受けた初日の衝撃は、今でも決して忘れることはない。
「教えてくれたとおりに実際にやってみたら、自然とシュートが体に当たるようになったんですよ!」
一瞬にして新GKコーチに心酔した。現役時代の実績からも、ポジショニング、相手に対して詰めるタイミングなど、その指導の一つひとつがとてつもなく説得力があった。時には、自ら体現し、見本を見せてくれた。
「教え方もすごくうまくて、GK一人ひとり、学年もレベルも違う中、『この選手はこれができるけど、これができないから、ここを伸ばそう』とか、蹴るボール一つにしても、『この選手は、この球はキャッチできるけど、あの選手はできないから、こういう種類の球を蹴ろう』など、一人ひとりに適した教え方を考えてやってくれていたので、全員がレベルアップできたと思います」
長谷川自身も、今までにないほどの成長を実感できた。さらに、真の意味で「GKってこういうものなんだ」というものも学んだ。
ショックだったのがコーチングだった。それまでは、特に何も考えず、思ったことを口にして指示を出すのがコーチングだと思っていた。だが、土肥氏のそれはまるで違っていた。
「選手一人ひとりの性格を見極めて、声を掛けているんです。例えば、センターバックの一人が、その日、足に少し痛みを抱えていたとしたら、試合前にまずその選手と話をして、痛い箇所や痛み具合など、足の状態をしっかりと把握するんです。そしてもう一人のセンターバックの選手に、『あいつ、ちょっと今日足が痛いらしいから、カバーの意識をいつもより強めておいて』と声を掛けていた。また、みんなをイジるタイプなのか、それともみんなからイジられたほうが持ち味を発揮するタイプなのかなど、その選手のキャラクターを見極めてその選手に合ったコーチングにしているとも言っていました。さらに気温や気候、遠征先での体の重さ軽さ、移動時間などを考慮する。そういった、僕が今まで考えたこともなかった細かいところを教えてくれました」
そうしたことの一つひとつに新しい発見があり、GKというポジションの奥の深さ、面白さを知っていった。そして一時は嫌いになり掛けていたGKというポジションを、日々大好きになっていく自分に気付いた。
目を見張る成長を遂げていたが、前年、1学年上のポープ ウィリアムがトップ昇格を果たしていた。一般的に、よほどのポテンシャルがない限り、2年連続で同じポジション、特にGKという少ない枠の選手を育成から昇格させることは考えにくい。その事情を理解できていただけに、「トップ昇格は最初からできると思っていなかったですし、プロになれるとも思っていませんでした」と振り返る。特に大きなショックを受けることもなく、長谷川は自然な流れで日本体育大学へと進学した。
大学1年生の時、思いも寄らない出来事が起こった。最初はトップチームでプレーしていたが、夏を過ぎたある日、当時のGKコーチからBチーム降格を命じられた。今でこそ降格の理由が、幼さゆえの“反抗的な態度”だったと素直に認めることができる。しかし当時はまだ、己が信じたものしか受け入れられない19歳の少年だった。
「一度、土肥さんから教わったことをそのコーチに否定されたことがあって。もともと、自分に対する評価が良くなかったのも知っていたので、イライラしてしまったんです」。昨年まで“日本一のGKコーチ”から学んでいたという充実感が、誤った形の自尊心を作り上げてしまっていた。その時、大学の先輩から「捨てなきゃいけないプライドもある」と諭され、未熟さを思い知らされた。だが、その悔しさから「プロになって、そのGKコーチを見返してやろう」と、そこで初めて「プロになりたい」と思ったのもまた事実。こうして改めて自らのサッカー人生を振り返ると、「そのコーチとの出会いもまた、僕にとってはすごく大事だったと思う」。
その思いを果たし、2018年、プロとしてヴェルディに戻ってきた。
小学生の頃、三浦知良時代からのヴェルディファンだった両親に連れられて来た、思い出の場所。初めて練習見学に訪れた日、高木義成氏に写真撮影をしてもらった。その優しい対応に大ファンになったことがGKを始めたきっかけとなった、始まりの場所。高校1、2年生の時、あんなにも足を踏み入れることが憚られた、苦しみの場所。時によって、さまざまな印象で記憶に刻まれているクラブハウスに、トップチームの選手として通えている自分自身が今でも信じられないという。「あの頃の自分に、『ここでプロになるんだぞ』と教えてやりたい」。
ただ、プロの厳しさを、この2年で痛感しているのも事実だ。選抜メンバーにも選ばれていた大学時代に武器としていた、土肥氏直伝のシュートストップ、コーチングも、今のままではプロの世界では通用しないと肌身で感じているという。目指す目標は、「土肥さん。でも、土肥さんを超えるつもりで、『絶対に腐らない』性格を最大の武器に、誰とも比べず、“長谷川洸”というGK像を作り上げていきたい」と力強く語る。
つらくてつらくて、サッカーから逃げ出したかった高校生の頃、常にそばに寄り添い、ただひたすらに励ましてくれたのは母だった。
「辞めたら負けだよ」
その一言が、どれほど長谷川の支えになったことか。「恥ずかしいので面と向かっては言わないですが、母の存在がなかったら、とっくに(サッカーを)辞めていたと思います。本当に感謝していますし、尊敬しています」。恩返しは、母の大好きな“ヴェルディ”でプロデビューを飾り、守護神としてピッチに立つことで果たしてみせる。