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2021.11.25

『YOUTHFUL DAYS』vol.20 杉本竜士

『YOUTHFUL DAYS』vol.20 杉本竜士

 

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

取材・文=上岡真里江

 

■大きな転機となったシンガポールへの引っ越し

 

2011年、高校3年次に主将としてヴェルディユースを率い、『adidas CUP 2011 第35回日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会』で優勝を果たし、大会MVPに輝いた杉本竜士も、今年で28歳となった。

ユースからそのままトップ昇格を果たし、プロとして10年の月日を経たが、その間、名古屋グランパス、徳島ヴォルティス、横浜F・マリノス、横浜FC と、いくつものチームを渡り歩いてきた。「けっこう移籍もしてきましたけど、今まで選択を間違ったとか、あの時こうしていればよかったなと思ったことは、『絶対にない』と言えます」。自身のサッカーキャリアに後悔など微塵もないと、キッパリ断言する。

 

それは、幼少期からの人生についても同じだ。「外で遊ぶのが大好きで、学校の休み時間も、絶対に外で運動していた」という少年時代。サッカーとの出会いは3歳ぐらいの頃だった。二つ上の兄が始めたのを機に、幼稚園で行っている同じサッカー教室に入会した。“遊び”がメインの、決して本格的なものではなかったが、それでも幼心には「サッカーって楽しい」との思いは十分に刻まれた。

 

幼稚園から高校まで一貫校だったため、小学校に上がってからも、自然とそのまま同じ教室に通い続けていた。転機が訪れたのは小学校1年生の途中。父親の仕事の転勤に合わせ、シンガポールへと引っ越すことになった。

 

シンガポールでも、サッカーは続けた。5つぐらいしかない日本人のサッカーチームに2つ、多国籍のチーム1つの、合計3チームに所属したが、それぞれで楽しんだ。中でも刺激的だったのが、日本人チームの一つで、現在のベガルタ仙台の前身・ブランメル仙台(当時JFL)でプレーした後、シンガポールリーグに所属していた伊藤壇氏(現クラーク記念国際高等学校サッカー部監督)らがコーチをしているチームだった。

 

「そこは壇さんと、もう一人、シンガポールリーグでプロとしてプレーしていた田中洋明さんが教えてくれるというチームで、プロの人から教わったり、そのコーチが試合の時はスタジアムに見に行ったりもしていました。今にして思えば、レベルは日本よりは全然下だったし、“緩く、楽しく”という感じでしたが、やはりプロの上手い人から教わったことはすごく勉強になりました」

 

ちなみに、田中氏は読売ユース出身。その後、1997年から2000年まで東京ヴェルディでプレーしている。その後の杉本も同じ経緯を歩むことを考えると、不思議な縁である。

 

そして、小学校4年生になるタイミングで日本に帰国した。学校は以前と同じ学校に通ったが、サッカーチームだけは、「もう少し真剣にやりたい」との思いから、地元であり、全国でも“強豪”として知られている『府ロクSC』へ通うことを決めた。

 

しかし、ここで生まれて初めて挫折を味わうことになる。シンガポールでは少人数だったこともあり、常に自分が一番上手い存在だっただが、名門と言われているクラブだけに、各地から能力の高い選手が集まってきている。「ヤバい。みんなめちゃくちゃ上手い。厳しいな…」。さすがに落ち込んだ。

 

当時、朝の情報バラエティ番組『おはスタ』のコーナーで、『クーバー・コーチング・ジャパン』が特集されているのをテレビで見たのがきっかけで、同スクールにも通っていた。「クーバーは個人技術に特化した本格的なスクールで、そこにもめちゃくちゃ上手い選手がたくさんいて、『こんなに差があるの?』と愕然としました」

 

「僕はそこまで強い人間じゃないから、最初はすごく落ち込みましたよ」。ただ、そこで逃げる男ではなかった。少し経ってからは「絶対に負けたくねー」、「そのためにはやらなきゃ勝てない」と奮い立ち、個人練習の日々が始まった。

 

一人での練習ではできることが限られてくる。「公園でドリブルをしたり、クーバーで教わったボールタッチなどの復習をしたり、本当に単純なことですが、ひたすら繰り返してやっていました」。その練習が、杉本の大きな魅力となっている“ドリブル”を磨くことにもつながった。練習は嘘をつかない。続けていくうちに、明らかにチーム内でも通用するようになり、試合でゴールを決めるなど目に見えて結果も出るようになった。気がつくと、東京都や関東のトレセンのメンバーに選ばれる存在になっていた。

 

そのトレセンでは、かけがえのない出会いが待っていた。端山豪との出会いだ。当時、東京ヴェルディジュニアに所属していた端山氏から、メールで「一緒に全国獲ろう!」とラブコールされた。それが一つの大きなきっかけとなり、中学校入学とともにヴェルディジュニアでサッカーをすることを決めた。

端山のほか、田中貴大、南秀仁、舘野俊祐らの同級生、さらに一つ上に小林祐希、高木善朗ら、一つ下に中島翔哉、前田直輝ら有能なチームメイトにも恵まれ、東京ヴェルディジュニア、ユースでは、『日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会』連覇、『東京都サッカートーナメント』で優勝し、東京代表として『天皇杯』に出場するなど、輝かしい時間を過ごした。

 

■『楽しい』『好き』という気持ちがすべての原動力

 

そんなアマチュア時代で「最も今のプレースタイルに影響を及ばした年代は?」と問うと、「その質問、難しいなぁ…」と熟考した末に、「一つでも欠けていたら、ここにはいないと思う」とうなずいた。

幼稚園の記憶はほとんどないが、「『楽しい』を教わったんだと思う。もしその時に、本能的に『つまらない』と思ってしまっていたら、1回でもそう思ってしまっていたら続けていないと思う。その時に『楽しい』と思えたというのが一番根底にあって、それが非常に大事なことだったのかなと思います」

 

シンガポールでも、府ロクでも、それぞれの段階に合わせて常に「楽しい」を継続し、その喜びが成長を促してくれた。そして、「楽しい」を根本に抱きながらも、技術力向上への欲が出てきたところでクーバーに通い、初めて本格的な“サッカー”を教わった。

 

「それまではお父さんコーチなど、そこまで“専門”というコーチに教わったことがなかったのですが、クーバーではコーチもしっかりと専門的に育成されていて、サッカーに特化した組織を作っていた。本当に技術に特化した環境で基礎中の基礎からしっかりと教えてもらったのは、すごく自分のためになった。行って良かったと心から思います」

 

ヴェルディアカデミーでは、「とにかくみんなでやるのが楽しかった。仲も良かったし、強かったし、みんなで一致団結して、試合をやって、泣いて、喜んで。サッカーをするのが本当に楽しかった」。当時は“やんちゃ”エピソードも絶えなかった。高校1年生の時には、突如練習に来なくなる『失踪事件』もあった。そのことですら、「それはそれでよかったと思いますよ」とイタズラっぽく笑う。

「後悔は、何一つない」。そう断言できるのは、うれしい時は喜びを爆発させ、負けて悔しい時は涙を流し、敗北を素直に受け止めて練習する。喜怒哀楽、常に自分の気持ちに嘘をつかず、感情のままに行動してきたからに他ならない。

 

そうした自分を突き動かしているのはただ一つ、「サッカーが好きという気持ち」のみ。「うまくいかないたびに『サッカーつまらないなぁ』と思いますが、それ以上に『好き』だと思える。もし、ちょっとやそっとの『好き』であれば、少し嫌なことがあったらすぐに嫌いになったり、諦めてしまったりしたと思う。でも、一瞬『つまらないなぁ』とか『嫌いだな』と思っても、それでも好きだし、やっぱり突き詰めたいと思うから、ここまでできていると思う」

 

時折訪れる「つまらないなぁ」の感情も、次の試合で勝ってチームメイトと喜びを分かち合えれば、すべてが吹き飛ぶ。プレーの中でも、武器であるドリブルで相手を翻弄した時、点を決めた時、アシストを決めた時、チームメイトと同じ絵を描けるようになった時、ミーティングでやったことが実際に試合で出た時… そうした「一つひとつの成功が、すべて楽しい」のである。

 

サッカーを好きなままプロにさせてくれた古巣ヴェルディに今年7月、5年ぶりに復帰した。「あれから何チームかに行き、その都度良い経験をさせてもらいましたし、それぞれが思い入れのあるクラブです。でも、やっぱりここは育ててもらったクラブ、僕の原点でもあるクラブなので、このクラブがもっともっと良くなって、強くなることを強く願っています。そのために僕ももっと力を還元できるよう、努力してやっていきたいと思っています」

この先もそうであろう『後悔なき人生』の1ページの中で、「28歳、ヴェルディ在籍の杉本竜士」が特別なものでありますように。