『YOUTHFUL DAYS』vol.19 新井瑞希
『YOUTHFUL DAYS』vol.19 新井瑞希
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
保坂信之コーチに「サッカーのすべてを教えてもらった」
「ピンチはチャンス」とはよく言ったものだ。カテゴリーが上がるごとに、次への道が閉ざされてきた。だが、そこで泣き寝入りをしないのが新井瑞希の真骨頂だ。そのたびに自ら行動してチャンスをモノにし、力強くここまで歩んできた。
東京都心から電車で1時間弱、豊かな自然に囲まれた埼玉県北足立郡伊奈町で育った。幼少期の記憶は鮮明で、幼稚園に入る前のことまではっきりと憶えている。「両親がアウトドア派だったこともあって、朝から夕方まで、毎日のように家の近くにある森の中の公園に行っていました。お母さんのママ友家族も何組か一緒だったので、同級生ぐらいの友だち5~6人と、いつも走り回ったり、カブトムシを捕まえたり、ザリガニを捕ったりして遊んでいました」
同じ小学校に入学した幼馴染たちのあとを追い、少し遅れて『伊奈小針サッカースポーツ少年団』に入団した。運動神経に長けていた新井はたちまちエースとなり、背番号『10』を背負って面白いようにゴールを量産した。試合をするごとにセットのように必ずといっていいほどついてくる“得点”こそが、サッカーにハマった最大の理由だった。
ゴール量産に欠かせなかったのが、小学校2年生から通い始めたサッカースクールだった。少年団が土曜日と日曜日のみの活動だったため、「もっと上手くなりたい」「他のところでもやってみたい」と、少年団の2~3つ年上の上手い選手が通っていた『Fod(s)』というスクールに体験参加。すると、これまで味わったことのない楽しさを見いだすことができた。その『Fod(s)』の代表兼ヘッドコーチが、現東京ヴェルディコーチの保坂信之だった。そしてこの出会いこそが、新井のサッカー人生にとって最も大きな財産となっている。
「保坂さんに、サッカーのすべてを教えてもらったと言ってもいいと思います。少年団はお父さんコーチだったので、どうしてもすごい技術や専門的なことを教えてもらうことはできなかったですが、現役時代にドリブルやテクニックがすごい選手だった保坂さんに、そうした部分も含め、本当に今の自分のベースとなるすべてのことを学びました」
『Fod(s)』では、「技術を身につけさせるために、反復練習ではなく、主にゲーム形式の練習を採り入れる」との方針から、徹底的にミニゲームが行われた。そのため、「ドリブルなどの技術的なものをじっくり教えてもらうというよりは、サッカーの楽しさを教えてもらった感じ」だという。それに加え、保坂コーチからは、個人的にも可愛がってもらった。「1回イベントにも連れていってもらいましたし、『スカパー!』のCMに一緒に出せてもらったこともありました。プライベートでも良くしてもらっている中で、いろいろなことを教えてもらいました」
教わった技術を磨くべく、個人練習は自宅でも行った。もともと、サッカーは父の勧めもあったため、両親とも練習には積極的に協力してくれた。「リフティングと、あとは家の中でコーンドリブルをしていましたね。8畳ぐらいの部屋で、サランラップの芯を立ててコーンに見立てて。あれって、ちょっとでも掠ったらすぐに倒れてしまうので、当たらないでどれだけ速く行けるかを、親にタイムを測ってもらいました」。大事なのは「とにかく速く」。「丁寧にやることも大事なのですが、ゆっくり丁寧にやっても上達しないと思って。最初は当たってしまうのは当たり前なので、その中でも、徐々にスピードを速くして、なおかつコントロールができるようにしていく。それは、小学生から中学生ぐらいまでやり続けていました」。やっていくうちに、自分でもどんどん上達していることが分かり、それが自信にもつながっていった。
少年団で常に一番の存在だったこともあり、「もっと強いチームでやりたい」との思いは次第に強くなっていった。小学4年生の終わりに、Jリーグクラブのセレクションを受けることを希望する。埼玉県在住。保坂コーチが浦和レッズとの関わりもあったため、第一希望は浦和レッズのアカデミーだったが、当時は小学生チームがなかった。次に、大宮アルディージャのアカデミーを希望するが、『さいたま市在住選手のみ』という採用条件から外れているため断念。通える範囲で、ということで、柏レイソルの小学生チームのセレクションを受けることになった。
その年は、残念ながら最終セレクションで不合格となってしまうが、小5から小6になる際、再び受けて見事合格。途中加入の選手は毎年1、2名しか採用していないため「難しい」とされている中、晴れてJクラブ傘下の選手となった。
“プロ組織へのこだわり”が道を切り開く
その後、柏レイソルU-15(中学生)には上がれたが、同U-18への昇格は「ほぼ無理」と判断されてしまう。そこで、他の選手の多くは高校サッカーを選んだが、新井は「走るのが嫌」との理由で“走る”イメージのある高体連(高校体育連盟)でのプレーを敬遠。Jリーグのアカデミー行きを希望した。その旨をレイソルの指導者へと懇願すると、「難しいとは思うけど、挑戦してみたらいい」と許可をもらい、浦和レッズユースの練習に参加し、合格を手にした。
パスをつなぐレイソルのサッカーとは違い、レッズは「頑張って、フィジカルやドリブルなどでガンガン攻めるスタイルのチームだったので、自分的には馴染みやすかった」という。ただ、皮肉なことに、大槻毅監督(当時)の走る量、練習量の多さは「全ユースチームの中でも上位に入ると思う」ほど。「走るのが嫌い」との理由で高校サッカーではなくJユースを選んだにもかかわらず、結果として「めちゃめちゃ走る(笑)」チームに加入した。だが、ここで身につけたフィジカル面、メンタル面の強さは、今でも新井の強みとなっているのだから面白い。
だが、ここで再び行く手を塞がれた。トップ昇格の可能性が消滅したのである。他の選手たちが大学サッカーでのプレーを選ぶ中、やはり新井は高校時と同じく、大学ではなく“プロ組織”にこだわった。筋を通すため、レッズに「他のクラブの練習参加に行きたい」と頼んだが、残念ながらつないでもらうことができなかった。
「自分で探すか」と決意した18歳は、たまたまSNSで見つけた、本田圭佑選手(スードゥヴァ・マリヤンポレ/リトアニア1部)のマネジメント事務所『HONDA ESTILO株式会社』が経営権を持つ『SVホルン(オーストリア)』の日本でのトライアウトに参加することを決めた。書類選考、実技の一次試験を通過し、20人程度残ったメンバーと流通経済大学との試合を、本田選手が視察に訪れていた。そこでの新井のプレーが、本田選手の目に止まった。個人的に呼ばれ、「海外でやりたいの?」と意思を確認された結果、数日後に合格通知を受けた。日本で行われたトライアウトで合格したのは、新井ただ一人だった。
こうして、常に諦めず、プロへの道を自らの手で切り開いてきた新井は、2019年に「自分のお父さんよりいろいろなことを話すぐらい一緒にいた」という保坂コーチのいるヴェルディに加入した。この巡り合わせも、新井の信念と才能と努力のすべてが手繰り寄せたに違いない。
「ずっと知っている人だし、とても信頼しているので、本当にやりやすい環境でやらせてもらえています」。この縁について、互いに何かを口にしたことはないが、教え子がプロになって、その選手と、またプロで一緒に戦える喜びを感じないコーチはいないだろう。「保坂さんも、きっとうれしいと思います」(新井)
今季はケガなどもあって途中出場が続いているが、「いつでもスタメンから行ける準備はできています。あとはいつ声がかかるか、“待ち”状態です!」と準備は怠らない。恩師に教えてもらった「ゴールに直結するプレー」にさらに磨きをかけ、「一人で勝負を決められる選手」になって恩返しを果たしたい。もちろん、その自信はある!