日本瓦斯株式会社
株式会社ミロク情報サービス
株式会社H&K
ATHLETA
ゼビオグループ
2021.11.25

『YOUTHFUL DAYS』vol.11 梶川諒太

『YOUTHFUL DAYS』vol.11 梶川 諒太

 

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

取材・文=上岡真里江

 

物心つく前から備えていた『根気強さ』

 

プロサッカー選手に必要な資質とは、一体なんだろうか? 洗練された技術力、フィジカルの強さや大きさなどの身体能力、俯瞰力、思考力……。国内外問わず、栄華を極める多くのスター選手からは、パフォーマンスやプレースタイルに直結する能力の高さが強く連想される。その中で、梶川諒太からは『根気強さ』もまたその一つであると強く感じさせられる。

 

梶川自身も、それこそが11年もプロの世界で生き延び続けられている最大の要因だと自負しているが、実はこの気質は、物心つく前からその身に備わっていたようだ。

 

「1人目が男の子やったんで、2人目は女の子が欲しかったらしいんです(梶川)」という母親のイタズラ心だったに違いない。幼少期の頃のアルバムには、髪の毛を結ばれてうれしそうに笑う二男・諒太の愛らしい写真が何枚も残っている。そんな可愛らしい外見の一方で、行動は好奇心旺盛のやんちゃ坊主そのものだった。「工事現場とか工事車両とかが大好きで、一度こんなことがあったそうです」。大きくなってから母親から聞いたエピソードだ。

 

「まだ歩き出したばかりの頃、5歳上の兄が玄関か庭のドアのカギを開けた隙に、僕がそこから脱走したことがあったらしくて。で、周りを探しても見つからないし、待っていても全然帰ってこないので、捜索願いを出すことも考えていたところ、見つかったのが近くの工事現場。そこでずーーーっと工事を見ていたそうなんです。その時、母親が工事現場の作業員の方から、『すごい根気強い子やね。もう2時間ぐらい見てたよ』と言われたそうです」

まだ幼なすぎて、当時の記憶は梶川にはない。だが、だからこそ、興味を引かれたものに一心不乱に熱中できる性格が“本能”であることをより象徴しているのではないだろうか。

 

人生を懸けるまでになる興味の対象『サッカー』と出会ったのは4歳だった。兄が始めた地元クラブの試合を見に行った際、コーチから「一緒にやってみる?」と誘われ、一瞬にしてハマった。そこからは、サッカー漬けの日々が始まった。

 

「練習以外でも、家で壁にボールを当てたり、リフティングをしたりして、ひたすらボールに触っていました」

 

ここでも、梶川の努力家っぷりが遺憾なく発揮された。「小学校に入るまでにリフティング100回できたら、Tシャツを買ってあげるよ!」というコーチの誘いに、4歳児の心は純粋に燃えた。そして、「朝から夜までずーっと練習し、幼稚園の時に100回達成しました」。見事にTシャツをゲットしたのだった。

 

体格のハンデを思考力と技術力でカバー

 

小学校、中学校時代は、点取り屋としてFWやトップ下を任された。ただただ「楽しい」の一心だったが、中学生になり、成長期を迎えた時、初めて壁にぶつかった。体が小さいゆえ、周りの選手の体が大きくなっていくにつれ、フィジカルコンタクトで“当たり負け”をすることが増えていったのだ。父が身長162センチ、母は148センチ。「DNAといえばDNAなんだと思います」と、今でこそ何も気に止めることはないが、当時はそうではなかった。ある日、あまりに思いどおりにプレーできないことが続き、その鬱憤を身長のせいにし、自宅に帰って母に「身長が小さいせいだ!」とぶつけたことがあった。母はただ一言、「ごめんね。小さく産んでしまって」とポツリと謝ったのだった。

「これはあかん」。息子として、産んでくれた母親にそんな謝罪をさせてしまった自分が恥ずかしくなった。そして、「身長や体の小ささを言い訳にするのは違う」と、その後は一切フィジカルにコンプレックスを抱くことはなくなった。それどころか、「小さいんだったら、当たらなければいい」と、サッカーにおいて非常に重要とされる3つの要素、『フィジカルスピード(=足が速い、体が強いなど)』『シンキングスピード(=考える力)』『プレースピード(正確にボールを扱える力)』の一つ、『シンキングスピード』を身につける大きなきっかけとなった。そして、「その時から、ポジショニングや次のプレーを考えた上で、きちんと自分の思った位置に止めるというのを、すごく意識するようになりました」。おのずと『プレースピード』を追求していくことにもつながっていった。

 

「この位置にいたい」、「ここで受けて、こう止めたい」など、頭の中で思い描いたとおりのプレーをするためには運動量が必要だった。その体力を培うことができたのが高校、大学時代だった。特に関西学院大学では、元日本代表監督でもあった加茂周監督の下、その代名詞とも言える『オールコートプレス』に耐えうるスタミナを養うべく、徹底的に走り込みをさせられた。「プロになった今も含め、大学時代の練習が一番きつかった」と、当時を思い出すと思わず顔が歪む。だが、「結果的に、ずっと走り回ったり、味方がいてほしいと思うところに顔を出し続けたりという、人が『しんどい』と思うようなことができる今のプレースタイルは、あの大学での走りがあったおかげかなと思っています」

生まれながらに『根気強さ』を心に宿し、フィジカルのウィークを思考力と技術力でカバーし、武器としてスタミナを養う。まさにすべての要素が今の梶川につながっているのである。

 

プロ入りの課程もそうだった。高校時代まで漠然と「プロになりたい」と思っていたが、大学時代で一度、完全に燃え尽きたことがあった(2019年MDP https://www.verdy.co.jp/page/249 参照)。そのどん底まで落ちた時期を、逃げずに自らと徹底的に向き合い、自問自答し、「やっぱりサッカーがやりたい」と乗り越えたことで、「やるからにはプロを目指さなければいけない」と、本気で覚悟が据わったことが大きかった。

 

大卒後、無事にプロ入りを果たしたが、生半可な気持ちで叶えたのとは訳が違う。だからこそ、試合に全く絡めなくなった時でも、「今だけを見るのではなく、自分で何をしなければいけないかを考えながらしっかりとやっておけば、必ず次の年につながる」と信じて努力し続けることができる。「『あの時やっておけばよかった』という後悔だけは絶対にしたくないので、日々のトレーニングの何気ないアップのパス練習など、みんなが流しそうな部分でもしっかり意識して、『今、ちょっとサボっちゃったな』という部分をひとつでも減らしていきたい」。わずかでも人と“差”がつけられるところを、常に考え、実践しているのである。

永井秀樹監督からの大きな信頼を得て、今季、2年ぶりにヴェルディに復帰した。15試合中12試合出場(うち11試合先発)と主力の一角を担ってはいるが、途中交代も多く、自身のパフォーマンスに決して満足いっている状態ではない。

 

だが、苦境の中にこそ、成長のヒントが隠されていることを誰よりも経験してきた。だからこそ言える。「絶対に自分にフタをしてはダメ。これまで、中学校でも高校でも、周りには年代別代表などに入って、いわゆる『プロになるやろう』と言われていた選手がたくさんいましたが、結果、プロに行っても続いてなかったり、プロになれていなかったりで、僕から言わせれば『勝手に諦めて、脱落していってくれた』という感じです。なので、僕はまず、悪あがきが大事だと思っています。本当に自分がどうなりたいのかを考えて、諦めず、諦め悪くやり続けること。もうひとつが、背が小さい、大きいは関係ない。とにかく『考えて』やることが大切。もし、子どもがこれを読んでくれていたとしたら言いたいのが、特に小学生の頃などは、体が大きい、強い、もしくは多少足が速いだけでいけちゃって、それで『すごい!』という感じになりがちですが、そういう部分は、あとからどんどん追いつかれてくるところ。なので、そういう時にこそきちんと考えてできれば、必ず良い選手になれると僕は信じています」

逆境こそが梶川の腕の見せどころ。根気強く、諦めず、悪あがきし、とことん自分が満足するまで真摯なサッカー道を追求していく。

 

(了)