オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(3/9)田村直也
第1回 田村直也
『2度の転機が田村にもたらしたモノ』
文=上岡真里江(フリーライター)
熱く、激しく、でも清々しい。田村直也のプレーは、チームメイトや観るものを活気づける。「昔に比べたら、だいぶ落ち着いたと思いますよ」と、本人は苦笑するが、その落ち着きは、これまでのサッカー人生を懸けて育んできた“いま”の田村だからこそ、身につけられた武器だと言っても過言ではない。ベガルタ仙台時代、対戦相手からは「相手にしたくないタイプ」と言われてきた。一見すれば、DFにとっては最高の褒め言葉にも聞こえるが、そこにはポジティブな意味とは別にもう一つ、「ケガをさせられそう」というダーティーなイメージも含まれていた。と同時に、「その分ケガも多くて毎年必ず1カ月以上は離脱していた。若さと怖いモノ知らずで勢いだけでやっていた部分もあったので、このままでは厳しいなと思っていた」と語る。そんな“向こう見ず”さが改善されたのも、落ち着きを手に入れたからに他ならない。
キャリアのすべてが今のプレースタイルを作り上げてきた。その過程において二度の転機が、田村に大きな影響をもたらした。
一度目は、ヴェルディユースから中央大学へ進学した1年生の時。すぐに試合に出られると思っていたが、そう甘くはなかった。当然と言えば当然の話なのだが、同じボランチの位置には、4年生の先輩が君臨していた。それでも、「何が足りないのか?」と自問自答を繰り返し、ひたすら練習を重ねていく。そして夏頃からレギュラーとして試合に出場できるようになった。
「信念をとおしてがむしゃらに突き進めば、道が開ける」
この成功体験が、ここまでプロという厳しい世界で13年目の開幕を迎えられた礎になっている。のちに、大学のOB会で先輩から「お前が出るなら、俺はサブでも我慢できたよ」と当時の思いを告げられた。
「(当時は)全く周りが見えていなくて、人の気持ちも分からない、ただの独りよがりだった自分に、その時気付かされた」
大きな学びを得た経験だった。
二度目は2013年。アカデミー時代を過ごしたヴェルディへの復帰だった。
「ここから、俺の第二のサッカー人生が始まった」
とはいえ、1年目は苦悩した。移籍したばかりでキャプテンを任されたが、なかなか結果がついてこなかった。その影響もあり、溝ができてしまった監督と選手との狭間で心身ともに疲弊した。
「もっとやれることはあったと思う」
今でこそ「自分の力不足だった」と悔しさを滲ませるが、その教訓から、翌年にはチームだけではなく、クラブ全体、スポンサー、サポーターなど、自分たちを支えてくれる存在に広く視野を向けられるようになった。すると、当然のように毎試合スタジアムが満員になる仙台時代には感じなかった、“感謝”の思いが溢れてきた。
「周囲の人の想いを力に変えて戦える幸せを体験できるようになったのは、ヴェルディに帰ってきてから」
ヴェルディでは今年で6年目を迎えるが、選手として勝利を追求することはもちろん、ピッチ外でも、告知活動や地域支援活動、情報配信などに積極的に協力している。
「育ててくれたヴェルディとチームに何ができるのかが、自分のサッカー人生の集大成。この年になり、自分の存在価値はそこにもあると思っています」
ボランチ、サイドバック、センターバックと、チーム事情や指揮官の采配によってポジションを変えてきた。常にチャレンジの連続だったサッカー半生を、田村は「背が高いとか、足が速いとか、何か飛び抜けた能力があれば一番ですが、僕にはない。そのコンプレクスがあるから、どこの位置でもとにかく人が嫌ってやらないことをやることで、信頼を勝ち取ってきた」と断言する。
だが、決して悲観しているわけではない。むしろ、逆である。
「目立つのは、ズバ抜けた才能を持った選手に任せて、僕はそういう選手を輝かせるために泥臭くプレーする。試合前には真っ白だったユニフォームが試合後には黒くなっているのを見て、気持ちが良くなるような、ドMな要素もすごく大事。だから勝とうが負けようが、その部分だけはプライドを持ってやっていきたい。能力を持ったいい選手が活躍してくれる陰には、絶対に僕がいたい。そう思ってプレーしています」
試合中、ふと気がつけば、左手薬指に刻まれた二本の線を触れているという。結婚指輪を意味する二本線に触れることで、愛妻と子どもたちの支えを感じたいからだ。そして、今の自分が伸び伸びプレーできる環境を整えてくれているすべての人たちの思いを背負い、チームメイトが輝くために泥臭く闘い続ける。
「僕は昭和の人間だと自分でも思う」
熱さ全開、生え抜きの闘将は、これからもヴェルディの宝であり続ける。
※毎ホームゲームで配布する、マッチデイプログラムで連載していく『緑の分岐点』。スタジアムでご覧ください!