『YOUTHFUL DAYS』vol.17 井出遥也
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
“一人遊び”で磨いた確かな技術
「上手い」「巧い」と評される選手は数多くいるが、それが「見ていてワクワクする」「何かやってくれそう」といった心が躍る選手とイコールかといったら、必ずしもそうとは言い切れない。その中で、井出遥也は両方を兼ね備えた、“目を惹く選手”と言っていいだろう。
それは、導かれるように身についていったスキルだった。
週末だけ活動するサッカークラブに毎週参加していた幼稚園時代が、ボールを蹴っている最古の記憶だ。とはいえ、まだ本気でサッカーを習う気のなかった井出は、小学校1年生の頃はサッカークラブに所属していない。周りの友だちはみな、少年団に入っている中で、一人放課後は公園で時間を忘れてサッカーボールと戯れた。
「ひたすら一人で壁に蹴って、壁から返ってきたボールをトラップするとか、ずっとそういう練習をしていました」
今にして思えば、その“一人遊び”こそが、ボールタッチやトラップなど、その後井出が「面白い」と表現されるゆえんとなる個人技の基礎を養ってくれたと、本人も確信する。
友だちからの誘いもあり、小学校2年生に上がったタイミングで『高柳FC』へ所属。その後、東京の足立区に転校し『クリアージュFCロッキー』に移り、本格的にサッカーキャリアがスタートした。「クリアージュでは、技術的なトレーニングが多かった」ため、それまで個人で培ってきた技術を、よりスキルアップできた。その卓越した技術は次第に注目を集めるようになり、気がつくと東京都トレセンなど選抜チームの常連選手になっていた。
中学からは、仲の良かった友だちの姉が所属していたことをきっかけに、ジェフユナイテッド市原・千葉アカデミーに通ったが、ここでの指導者との出会いこそが、井出のプレースタイルの原点といっても過言ではない。
「ジュニアユースに入ってからも、アルゼンチンに行っていた荒川友康監督(当時)から、南米の“技術を大事するサッカー”を学べたことは大きかったですし、ユースに上がって菅澤大我監督に教わるようになって、それまでは感覚でやっていたものを、自分の技術をどう戦術的に使うべきか。“サッカー”というものを教えてもらいました」