『YOUTHFUL DAYS』vol.9 柴崎貴広
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
今とは真逆の性格だった少年時代
決して華やかなサッカーキャリアではない。日本代表に選ばれたこともなければ、正ゴールキーパーとして試合に出続けたシーズンも数えるほどだ。それでも今年でプロ21年目。常に必要とされる存在であり続けている。柴崎貴広はなぜ、厳しいプロの世界でこれほどまでに長く生きてこられたのか。理由は、その人柄に触れれば誰もが納得するに違いない。
試合に出れば、「チームメイトたちの代表として出ている。出られない人に恥ずかしくないプレーを」と、誰よりも強い責任感を持ってピッチに立つ。ベンチやメンバー外の日々が続いても、決して自暴自棄にならず、出場選手たちへの全力サポートを惜しまない。まもなく39歳を迎えるが、若手GKたちと大差ない練習メニューをこなし、ケガによる長期離脱もほとんどない。機を見ては、率先して『ランチGK会』を開催し、GK間の結束を強める(新型コロナウイルスの蔓延以降は中止)。そして、選手のために朝早くから夜遅くまで労力を尽くすチームスタッフへさりげなく差し入れをし、感謝の思いをきちんと形として表現する。こうした、日頃から見せる一挙手一投足には、クラブ、チームへの愛情と仲間へのリスペクトが溢れている。柴崎が周囲を大事にするからこそ、周囲からもまた、大切にされるということだ。
だが、意外にも、子どもの頃は真逆の性格だったというから面白い。「たぶん、中学3年生の時」だと記憶している。通知表に書かれる担任の先生からの所見欄に、他の友だちが長所・短所など長めの文章が綴られている中、自分だけは『One for all, All for one(一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために)』のワンワードのみだったという。
「当時は英語だったし、意味が分からなかったから、『先生、何言ってるんだろう?』と思っていました。でも、大人になってよくよく考えてみると、確かに俺、人のために何かをするのが好きではなかったなと思って……」。決して、協力しないわけでも、サボって参加しないわけでもなかったが、例えば合唱コンクールのクラス練習などは、「なんで、みんなで歌を歌わなきゃいけないの?」と思いながら、渋々歌うような少年だった。
それでも、サッカーにだけは情熱のすべてを注いだ。全国高校野球選手権(甲子園)出場経験のある父親の影響で、小さい頃から野球をして育った。そんな「プロ野球選手」が将来の夢だったはずの貴広少年がサッカーに導かれたのは小学校1年生の終わり頃だった。