『YOUTHFUL DAYS』vol.5 山下諒也
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
“ジュビロ黄金期”に磐田で生まれ育つ
ジュビロ磐田が2ndステージ初優勝を遂げて間もない1997年10月19日、まだ興奮冷めやらぬ地元・静岡県磐田市で山下諒也は生まれた。静岡はもともと日本屈指の『サッカーどころ』として名高い土地柄だ。そのうえ、現役ブラジル代表主将のドゥンガを中心に、中山雅史、藤田俊哉、名波浩らを擁し、その後の数年間、後世に語り継がれる“黄金期”を築いていくジュビロの存在によって、磐田の少年少女たちのサッカー熱は自然と高まっていた。
山下もそんなサッカー少年のひとりだった。通っていた小学校が地区ごとの集団登校だったため、毎朝決められた時間に公会堂に集合していたのだが、山下の地区はまた特別だった。「みんな集合時間よりもだいぶ早く来て、必ずボールを蹴ってから学校に行くというのが日課でした。登校中も、『じゃあ学校から帰って、16時ぐらいから公会堂にみんなで集まって試合しようぜ!』と決めて、ボールが見えなくなるまでサッカーをして遊んでいました」
幼稚園の頃からフットサルチームに所属していたこともあり、地区の友だちとのサッカーでは、小学校1年生の時から目立つ存在だった。活躍できたからこそ、その魅力にどんどんハマっていき、「本格的にサッカーを習いたい」と小学校3年生の時にジュビロ磐田のサッカースクールに通うことを決めた。今、あらためて思い返しても、周囲には常に“サッカー”が存在した。静岡・磐田で生まれ育った環境こそが「運命的だった」と思わずにはいられない。
その後、ユース時代までジュビロのアカデミーで過ごしたが、今でも忘れられないのが中学3年生の最後の試合で味わった敗戦だ。高円宮杯で、当時『最強』と評されていたガンバ大阪ジュニアユースと対戦。「相手があまりに強くて、ウチのチームは試合前から『勝てるわけない』という雰囲気になっていて。僕はそういうのが本当に嫌で、自分だけは『絶対に勝てる』と思って試合に挑みました」。結果は2−3、他のチームと比べれば一番惜しい試合をしたが、だからこそ、チームが最初から「無理だよ」と諦めムードで臨んでしまったこと。そして、「勝てる」と信じつつも、それを実現できなかった自分自身が無念でならなかった。