緑の十八番 近藤直也選手編
マッチデイプログラム企画『緑の十八番』
近藤直也 選手
文=上岡真里江(フリーライター)
「プロ19年目」。
言葉にするのは簡単だ。J1、J2通算399試合出場(2020年12月12日時点)、世代別日本代表、A代表選出など、その肩書きや実績からもスムーズに19年を過ごしてきたような印象を受ける。
だが、その実は決して平坦なものではなかった。むしろ、キャリアの多くの年月は、二度とは戻らない“感覚”のすり合わせやケアなど、ハンディキャップをカバーしながら歩んだ「積み重ねの日々」だった。
もっとも、プロキャリアをスタートさせてからの最初の数年は、順風満帆そのものだった。柏レイソルユース所属の高校3年時から本格的にDFに転向したことで、それまでボランチや攻撃的MFとしてベンチメンバーに甘んじていた人生が一転、トップ昇格への道が開けた。そのきっかけとなった“鶴の一声”をかけてくれたのが恩師・池谷友良(当時柏レイソルコーチ)だ。
センターバックとしての知識が何ひとつなかった17歳は、池谷氏から授かった「スピードがあって、1対1が強いところがお前のウリ」という言葉を支えに、とにかく生じた疑問を人に聞き、ひたすら練習し、がむしゃらにスキルアップを求めた。とんとん拍子にプロに入りを果たし、次第に対人の強さやスピードへの評価も高まっていく。しかし、1年目のリーグ戦出場はゼロ。自身の中では正直、「(評価に対して)若干の違和感を感じていた」という。
その疑心が自信へと変わったのが、2年目の2003年、J1第2節の鹿島アントラーズ戦だった。デビュー戦であり、プロ初先発出場の大抜擢となった試合で、近藤は“風の子”の異名を持つ俊足FWエウレルと対峙し、1対1の局面で何度も相手を止めた。
試合後、目標としていたチームメイトの大先輩・薩川了洋(現SC相模原ヘッドコーチ)から「お前だったら止められると思っていたよ」と称賛され、胸を張って「1対1が自分の武器」と誇れるようになった。
そこから、徐々に出場機会を増やし、主力の仲間入りを果たした。世代別代表でも、トゥーロン国際、 FIFAワールドユース選手権(2003)、アテネ五輪アジア最終予選などで活躍。世界の超一流FWたちと対峙しても「やられる感じがしない」と言えるほど、ますますの自信と経験を身につけていった。2003年、2004年は、まさに“充実”そのものだった。
だが2005年、人生は大きく変わってしまった。開幕から順調にレギュラーとして試合に出場していたが、キャンプ時から抱えていたグロインペイン症候群が悪化し、8月に手術を決断。約1か月半後に復帰を果たすも、10月12日の練習中に右膝前十字靭帯と外側側副靭帯を断裂し、全治8カ月と診断された。
この“外側靭帯断裂”が厄介だった。前十字靭帯断裂の場合、多くは内側にひねり、内側側副靭帯損傷の併発が主だが、外側、しかも自損でというケースは「交通事故でしかなり得ない状態」と、主治医を驚かせたという。
負傷した瞬間、ビリビリと痛みが走ったものの、さほど痛みもなく自分で歩ける状態だったため、トレーナーに「歩けるから大丈夫」と伝えるほど軽視していたが、検査の結果、主治医には「靭帯が3本切れている。治るか分からない」と言われた。
幼稚園の頃からサッカーのためだけに時間を費やしてきた前途有望な22歳にとって、あまりに残酷な宣告。「人生で初めて頭が真っ白になった」。気がつけば、人目を憚らず号泣していた。
懸命なケアとリハビリの末、1年後の2006年10月に復帰を果たし、2007年には初のA代表候補合宿に招集されたが、直後に足首を捻挫し、チーム内でも出場機会を失っていく。以後、不遇の日々を過ごすこととなった。
自信を取り戻したのは2009年。シーズン途中にネルシーニョ監督が就任したことで、再びチャンスが巡ってきた。「ネルシーニョさんは、守備に対してはめちゃくちゃ厳しかった。特に球際の激しさは人一倍求める監督でした」。
試合に出られなかった期間に故障箇所の膝まわりをしっかり補強していたこともあり、コンディションは万全。持ち前の対人の強さは健在で、瞬く間に信頼を勝ち取った。さらに、試合に出続ける中でパフォーマンスは着実に上がり、2012年にはついに日本代表デビューを果たし、日本サッカー界にその名を刻んだ。
それほどまでの実績を残しつつ、いや、残せたからこそかもしれない。ポツリと言った。
「結局、今でも2005年のケガは完治していないんですよ」
一見すると、靭帯断裂前後のパフォーマンスに大きな差は見受けられない。だが、本人の感覚はまるで変わってしまった。失った3本もの膝の靭帯を修復すべく、負傷した同じ右足の腿裏から腱を切り取ったが、その量は通常の倍を超えるほどだった。そのため、右足の筋力は二度と完全に戻ることはなく、筋量も動きの質も感覚も、今なお左右では全く違うと明かす。
筋肉の左右バランスが崩れたことで、何よりもスピードが失われた。負傷前、2003年トゥーロン国際でクリスティアーノ・ロナウドと互角に渡り合ったほどの自慢のスピードは、復帰後は武器の項目から外してしまった。また、最も自信を持っていたはずの1対1の強さも、「歳を重ねるにつれて、武器なのかどうか分からなくなっている」と、謙遜も含めて控えめの発言だ。
それでも、1ミリも弱気になることなく胸を張れるのは「運の良さ」だという。
センターバックへのコンバート、移籍を考えていた矢先のネルシーニョ監督の就任など、何度振り返っても「この時、この出来事がなければ」という人生の大事な好転機が、近藤にはいくつも存在する。だが、“幸運”は、苦せずして巡ってくることはない。仮に運や転機はあったとしても、それを“幸運”として自らの力にするためには、相応の下積みが必要だ。
自分の人生は「運がすべて」と言い切る近藤も力説する。
「運をモノにするには、日頃からやるべきことをしっかり手を抜かずやるとか、当たり前のことをやり続けていないとダメだと思います。例えば僕の場合も、ネルシーニョさんに代わったとしても、試合に出られない期間に不貞腐れてトレーニングを怠っていれば、コンディションも上がっていないわけですから、使ってもらえるはずがありません。転機のタイミングというのは、誰もが皆、同じようにあると思うのですが、そのチャンスを得た時にどうつかみ取るかは、日頃の行い次第。しっかりと自分で考えて行動できるかだと思っています。結局、言われたことだけやっている選手は、そこで終わりますよ」
今季もここまで出場15試合と、決して満足いくシーズンではないが、それでも、「今の立場まで来られたのもラッキー」だと本人は受け止めている。もちろん、それを手繰り寄せたのも自分自身である。
序盤戦、なかなか試合に出られず自分を見失いそうになったが、あらためて己のプレーを見つめ直してみると、反省することは多かった。
「まず、球際に厳しくいけなくなっていると感じました。もちろん、このチームはボールを動かすことを求められますが、今一度『DFとして、何を一番にすべきか?』と考えたら、カウンターの起点を潰すなど、相手ボールになった時にいかに早く自分たちが奪い切るかが大事だなと。そこのインテンシティが自分として落ちていたことに気づかされました」
そこが改善されたことで、試合メンバーに入る機会が明らかに増えた。
2005年、最高潮の自分と決別してから早15年が経った。現在、Jリーグ通算399試合のうち、346試合は「完治していない」中で積み上げてきた苦悩と努力の積み重ねであることを思えば、あと1試合で迎える400試合出場の大台達成は格別なものに違いない。
来季、プロ20年目を前に思うことは、「年々、気持ちの上下が少なくなっている」という自分自身。「それが良いことなのか、悪いことなのかは、自分ではあまり分からない。若い時は、“怒り”をパワーに変えていましたが、この年齢(37歳)にもなると、気持ちの昂りがないので、もう少し闘争心を増したいという思いはあります。キレすぎも良くないし、いい塩梅に。そのバランスを見つけながら、熱く闘っていきます」
運を味方につけ、逆境は自らの力不足と受け止め、改善のために最善を尽くす。長く一線で活躍し続けるための秘訣を、近藤は身をもって示してくれているのではないだろうか。