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2020.07.29

緑の十八番(オハコ) 山下諒也選手編

マッチデイプログラム企画『緑の十八番』

 

山下諒也 選手

 

文=上岡真里江(フリーライター)

 

ひとたびボールを持つと、不思議とスタンドが沸く選手がいる。山下諒也もその一人だろう。「何かやってくれそう」。そう思わせてくれるのだ。

 

放つオーラの源はスピードにある。幼い頃から足の速さには自信があり、それを生かしたプレーでプロまで昇りつめた。とはいえ、天資だけに頼ってきたわけでは決してない。偶然か必然か、導かれるように進んできた環境の中で、“スピード ”という原石を研ぎ澄まし、より切れ味鋭い武器に育て上げた。

 

もっとも自信を持つ『1対1の仕掛け』は、幼稚園の頃からフットサルで培ったものだ。

「練習の半分ぐらいがドリブル練習でした。フットサルは足の裏を使ったりもするので、足のいろいろな箇所を使ったドリブルや技を学べたのが今につながっているのかなと思います」。加えて、縦110メートル、横64メートルの広さのサッカーに対し、フットサルは同40メートル、20メートルという狭いコートで行われる。当然、相手との距離も近くなるため、自分のところへ来たボールをきっちりと足元に収められる高い技術、さらには早いプレッシャーを一瞬でかいくぐるための素早い判断力が求められる。サッカーでも“個”のスキルとして重要視されるそうした要素が、幼少期から自然と鍛えられてきたのだ。

 

小学校3年生の時から通い始めたジュビロ磐田のサッカースクールでも、その成果は大いに発揮された。自慢のスピードとテクニックで常に一目置かれ、その後もジュビロ磐田Uー15(ジュビロSS磐田)、ジュビロ磐田Uー18と、着々とステージを上げていく。幸運なことに、中学1年生の時に衝撃的な人物との出会いにも恵まれた。一つ年下のキリアン・エムバペ(パリ・サンジェルマン/フランス)である。静岡県選抜の遠征でフランスへ行った際、練習試合の相手の中に、当時11〜12歳の現フランス代表エースがいた。

 

 「とにかくそのスピードに衝撃を受けました。『自分のスピードでまだまだ満足なんてしていられない』と思って。そこからいろいろなトレーニングをして、より一層スピードを高められるよう意識するようになりました」

 

エムバペの圧巻の速さは、13歳の山下に世界のレベルの高さと、スピードの魅力を強烈に印象づけてくれた。あらためて「武器にしよう」と決意すると、不思議と自分に対する見方も変わっていった。現在も身長164センチ、体重54キロと小柄だが、磐田のアカデミー時代から体は小さかったという。時に『短所』だと妬ましく思うこともあった。だが、いつしかそんな悩みは一切なくなり、「スピードを生かしたプレーをするためには、この身長が長所。この体格の自分にしかできないプレーを磨けばいい」と、誇れるようにすらなっていた。

 

とはいえ、いくらスピードがあっても、それが短時間でしか発揮できないようでは意味がない。攻撃と同じように、守備に戻る際にも速さは求められ、いざチャンスとなれば何度でも相手の背後を狙ってスプリントを繰り返さなければならない。つまり、スピードを90分間求められるということであり、スタミナもまた絶対必須条件ということだ。その意味では、磐田Uー18での練習が大いに成長を促した。「肺を大きくするための、走り込みのメニューが多かったです。走って、きつい時に大きく深呼吸して、わざと肺に負荷をかけて、大きくしていきました」。磐田のアカデミー時代も、現在も、スプリント回数が常にチーム上位を誇っているのは、まさにそうした成果の賜物だろう。

 

残念ながら高卒時点でトップ昇格は果たせなかったが、鈴木政一監督(当時/現在はジュビロ磐田強化本部長)の誘いで日本体育大学へ進学したのも、今にして思えば貴重なステップだった。「肩まわりの筋肉や腹筋、腸腰筋など、スピードに大きく関係してくる体の部位などをしっかり学べましたし、そこに対してのトレーニングも必死にやりました」。より速く、より豊富に。大学の4年間で、“スピード ”を必殺技にプロで活躍するための素地をしっかりと身につけた。

 

そしてもう一つ、スピードと並ぶ山下の大きな魅力は、プレーにも溢れ出る貪欲さではないだろうか。磐田アカデミー時代のコーチ陣も、「負けん気があって、頑張れるし、闘える選手」と回顧する。そうした精神力が芽生えたのにも、相応のきっかけがあった。

 

小学校6年生の頃だった。フットサルクラブからの紹介で、ブラジルの名門・サントスFCのセレクションを受けにブラジルへ渡った。「テクニックとかプレーとか以上に、ピッチに入った瞬間、選手一人ひとりがとにかく結果を残すために、目の色を変えて死に物狂いでやっている貪欲さを学べたことがすごく大きかったです」。生活水準が高く、何ひとつ不自由なく暮らせている日本人が、本当の意味でのハングリー精神を養うのは難しいと言われている。その中で、小学校6年生にして、「サッカーで成功して、貧しい生活から抜け出すんだ」と、家族のために人生をかけて勝負するブラジル人、ブラジルという国を肌で、目で、耳で感じることができたのは、かけがえのない財産となった。セレクションには合格したが、決断するには若過ぎたということもあり、結局は断ったという。その選択に特別な後悔はないが、この先いつか壁にぶつかった時、岐路に立った時には、きっとあの時の衝撃を思い出し、必ずや自問自答するだろう。「彼らぐらい、全力で人生をかけてサッカーをやれているのか?」と。そのハングリーさで次々と道を切り拓いていく姿を、ぜひとも見たい。

 

ここまでは途中出場が多いが、リーグ戦では全試合に出場。短い時間の中でも、ピッチに入れば存在感を示し、ルーキーながら早くも東京ヴェルディのサポーターに『山下=スピード』を印象づけることはできた。それでも、「ゴールを決められていませんし、まだまだ全然納得できていません」と、本人には物足りなさしかない。思い描くのは「『こいつには絶対に敵わない』、『こいつとは絶対に1対1をやりたくない』と思われるサッカー選手になって、どんどん知名度を上げていく」自分の姿だ。

 

「走り負けたら、自分の存在意義がなくなってしまう」

 

危機感とプライドを胸に、がむしゃらに貪欲に、ピッチを駆け回る。