緑の分岐点 高橋祥平編(前編)
「ヴェルディに帰ってこれて、マジでよかった」
(前編)
文=上岡真里江(フリーライター)
「このクラブのために、出て行ってくれ」。
あまりにも衝撃的な言葉だった。
2012年シーズンオフ、契約交渉の席で羽生英之社長からそう告げられた。
小学生のジュニア時代から10年間、東京ヴェルディ一筋で育ち、高校3年次の2009年には2種登録選手としてJリーグの開幕戦先発メンバーに抜擢。2012年には出場停止を除いて38試合に出場して6ゴールと、主力の一角を担う存在までになっていた。当然、その後も緑の戦闘服を身に纏い闘うサッカー人生が続くものだと信じて疑ったことなど一度もなかった。なのに、なぜ……。
理由は、愛するクラブの極めて深刻な状況だった。2010年、資金難からクラブは存続危機に直面し、羽生社長が就任して再建を進める中で、数シーズンは市場価値の高い有能な選手を売却して経営せざるを得なかったのである。
U-16日本代表から各世代代表に選出され、2012年にはロンドン五輪アジア最終予選に参加したU-23日本代表メンバーにも選出されていた高橋は、まさに最高の人材だった。事実、J1のビッグクラブを含む複数のクラブから獲得オファーが集まった。
「正直、出て行きたくなかった」と、今でも当時の辛い胸の内は鮮明に憶えている。それでも、「いつか必ず、呼び戻すから」と、断腸の思いで放出を通達した羽生社長の言葉を信じ、“ピッチ上”での戦力としてではなく、“経営面”での戦力という形でクラブに貢献する方法を決断した。
自らが望んだわけではなかったが、初めて慣れ親しんだ環境から転身したことは、結果として高橋自身にとって非常に大きなプラスとなった。
気持ちが進まない中での移籍だったため、しばらくは全てをネガティブに受け止めていたという。「環境に慣れることにも努力しなければいけなかったし、友達もいなかった。その中で、いきなりJ1に挑戦することになって。『移籍ってこういうことなんだ』と、すごく嫌な感じに捉えていました」。
だが、救いだったのは、大宮アルディージャのチームメイトや周囲の温かさだった。「センターバックを一緒に組んでた菊地光将さんも優しかったし、今オーストラリアに行った今井智基や下平匠など、みんな良い人たちばかりだったから、一気に仲間ができて、相当良い空気感でやれた」。次第に気持ちは切り替わっていき、「これは、J1への第一歩の試練なんだ」と思えるようになった。
そして、開幕戦を迎える頃には、「もう俺はヴェルディの選手ではない。大宮の選手なんだから、ここで結果を出さなきゃ終わっていく」と思うと同時に、「ヴェルディを離れた以上、この際、ずっと離れておいて、マジで『今だ』というタイミングを見計らって戻れればいい」と、腹は据わっていた。
そうしてヴェルディへの未練を吹っ切り、サッカーだけに集中すると、新たなものが次々と見えてきた。「まず、J1は甘くはないということを学びました。守備だけでも、攻撃だけでも難しい。本来であれば両立するのが一番いいのですが、大宮はすごく守備的に入るチームで、ヴェルディとは真逆。とにかく守備を主に考えることが多かった」。
DFの選手とはいえ、アカデミー時代から攻撃に主眼を置くサッカーの中で育ってきた高橋にとっては、守備的な戦い方は初めての経験。開幕からレギュラーとして起用されていたとはいえ、「試合には出られているけど、結果を出せているのかな?と考えた時に、すごく悩む時期がありました」。
どうしても違和感は拭えなかった。それでも、「J1ってそういうところなんだ」と割り切ってすべて受け入れることで、選手としてのキャパシティを広げていった。「良いことも、悪いことも、本当にいろいろあった一年だった」。生涯忘れ難き年となった。
もう1つ、人生に大きな影響を与えたのが、2017年のジュビロ磐田への移籍だった。2016年、在籍2年目を迎えたヴィッセル神戸で13試合と出場機会が激減したことで早々に移籍を決意。ここでも複数のオファーをもらった中でほぼ決意を固めていた意中のクラブがあった。
それを翻意させたのが、名波浩監督(当時)である。
「直々に会いに来てくれたんです。まさか、ナナさん本人が来てくれるとは思っていなくて」。元日本代表の背番号『10』番からの熱烈な口説き文句に、心が動かないわけがなかった。さらに、同じタイミングで、名波氏から『10』を引き継いだ中村俊輔(現横浜FC)の加入が決定的となったことも大きな動機となった。「一緒にやりたい!」と、一人のサッカー選手として、日本を代表する偉大な先輩たちとの日々に価値を見出し、磐田行きを決めた。
(後編に続く)