オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(7/27)永田拓也
第14回 永田拓也
『自ら決めた茨の道で身につけた“プロ意識”』
文=上岡真里江(フリーライター)
なんとも不思議なものだ。
中学、高校と、浦和レッズのジュニアユース、ユースで育ち、2009年にトップ昇格を果たした。阿部勇樹、田中マルクス闘莉王、田中達也など、当時の日本代表メンバーが何人も顔を並べる中、1年目からリーグ戦に出場。サッカー選手であれば、誰もが理想に思い描くエリートコースを歩んできた。だが真の意味で、永田拓也が“プロ意識”を身につけたのは、その一流選手たちが揃う日本屈指のビッグクラブではなく、J2のザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)に移籍してからだった。
ルキーイヤーは第15節でプロデビューを飾ると3試合連続で出場し、前途洋洋かに見えた。だが、その後は出場機会が巡って来ず、2年目は全くと言っていいほど試合に絡むことができなかった。周りを見渡せば、Jリーグの中でもトップクラスの選手たちばかり。いつの間にか、メンバー外が当たり前になっていき、「自分の中で、『もう無理なんじゃないか。(このレベルには)届かないんじゃないか』と、あきらめていたんだと思います」。
反骨心すら湧いて来なかった。与えられた練習メニューをただ淡々とこなし、足早にクラブハウスを立ち去る日々。「このままじゃダメだ」。落ちていく自分をなんとか奮い立たせようと強化部に出向き、「どこでもいいので、外へ出してください」。永田はそう、直談判した――。
すぐに、草津が手を上げてくれた。「行きます!」と二つ返事で受けた。期限付きとはいえ、結果次第で契約延長などの好条件も選択肢としてあったが、オプションは一切なしの“片道切符”を自ら選んだ。
「とにかく追い込まれた環境で勝負したくて。中学校時代から慣れ親しんだクラブ、気心知れた仲間から離れて、自分のプレー、性格などを全く知らない人たちの中で、甘やかされることなく、一から新しい自分を切り拓いていきたかったんです」
可愛がってもらっていたチームの先輩・柏木陽介からも、「J2で出られなかったら、もう(プロサッカー選手としては)無理だ、ぐらいの気持ちでやらないと」と、叱咤激励された。「これでダメだったら、レッズからもクビになるだろう」。すべてを覚悟の上で2011年、赤色のユニフォームを脱いだ。
身も心も入れ替えて加入した草津では、何もかもが新鮮で刺激的だった。
当時の草津は、現在のクラブ状況よりも環境的にかなり厳しく、「練習場も毎日転々としていて、高校のグラウンドを使ったり、アップをするスペースがなかったり、練習後、シャワーを浴びる環境もありませんでした」。レッズで育った永田には、もちろん初めての経験だった。
「その中で、草津の先輩たちの『もっと上に行ってやろう』という意識の高さに、ものすごく感銘を受けました」
チームとしても、個人としても、「もっともっと成長したい」との思いが、チーム全体、ピッチ内外に溢れていた。人工芝での練習も少なくなかったのも理由の一つだろう。選手たちはみんな入念なストレッチを行い、アップをした上で、練習に臨んでいた。練習後も、それぞれがしっかりとセルフケアを行っている姿に、レッズ時代、何一つしていなかった自分のプロとしての意識の甘さを痛感させられた。
また、最も感化されたのが、松下裕樹の存在だった。
「ケアの部分はもちろん、年齢的にも立場的にもチームトップの中心選手でさえも、練習中の勝負に本当にこだわっていて。調整ではなく、まさに“試合のための練習”。『少しでも上手くなりたい』という姿勢に正直、衝撃を受けました。レッズでは、どこかで『試合に出ている選手にケガをさせてしまってはいけない』と、気を遣ってしまっている部分がありました。でも、松下さんはとにかくすべてに対して全力で行っていた。そんな選手をあまり見たことがありませんでした。『プロというのは、こういう姿勢でやらなければ生き残っていけないんだ』と初めて危機感を覚えました」
そして、永田は変わった。練習の姿勢も、練習前後のセルフケアも、貪欲にできる限りのすべてを尽くした。それはプロ11年目を迎えた今でも変わっていない。正しい努力をしている選手を、サッカーの神様が見限るはずはない。技術的にも精神的にも日々成長を遂げると、レギュラーの座を確保。翌2012シーズンまで、草津の主力選手として活躍した。「試合に出てこそサッカー選手」。改めて、そう痛感した。
「いつか、どこかで勝負をしなければいけないと思っていました」
自らの手でポジションを掴み、試合に出続ける中で多くを学んだことで自信を身につけて迎えた2013年、「戻るなら今しかない」。希望と期待を胸にレンタルバックを決断した。しかし、“浦和レッズ”の壁は厚かった。ミハイロ ペトロビッチ監督体制は2年目を迎えており、チームはでき上がっている状態。永田の入る余地は皆無だった。リーグ戦でベンチに一度も入れないままシーズンを終え、戦力外となった。
その後、2014年から横浜FCでプレーし、今季からヴェルディでキャリアを積んでいる。常に信条としてきたのが、草津時代に身につけた“どんな状況でもあきらめない”気持ちだ。
5年目を迎えた横浜FCでの昨季、第33節まで一度も出場機会がなかった。だが、決して腐ることなく、常に最善の準備を整え続けたことで、最後の最後、第36節からポジションを掴んだ。
ヴェルディ移籍後も、なかなか出場機会はなかったが、「チャンスを伺いながら、あきらめない気持ちでやってきた」。第19節で初先発の機会を得ると、前節の第23節愛媛FC戦まで5試合連続スタメン出場。その愛媛戦では永井秀樹新監督の下、逆転の決勝弾を決め、新指揮官の初陣に花を添えてみせた。
「これからも、どんな状況であっても、サッカー選手としても、一人の人間としても、絶対にあきらめないというモットーだけはブレずにやっていきたい」
自らを崖っぷちに追い込んだからこそ手に入れられた。“不撓不屈”の精神は、永田の人生最大の財産だ。