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2019.06.22

オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(6/22)若狭大志

第11回  若狭大志

 

 

『試合に出始めたことで得た自信が新たな目標を与えた』

 

文=上岡真里江(フリーライター)

 

サッカー人生が大きく変わったのは、大学2年生の時だった。

 

「それまでは小・中・高校と、そこまで強いチームではなかったので、上を目指すという気持ちがそんなになくて」

 

サッカーの強豪、東洋大学に進学してからも「どちらかと言うと、『今を頑張って楽しんでやる』という感じでサッカーをやっていた」。そうした心構えが状況を変えたのか、状況がその心構えを生んだのか。大学1年生の時はトップチームはおろか、Bチームのリーグ戦にすら出場できなかった。文字どおり、「単にサッカーをやっていただけ」だった。

 

しかし2年生になると、立場が一変する。突如、トップチームの試合でスタメンに抜擢されたのである。

 

「特に僕が何かを変えたりしたことはありません。もともと自信があったジャンプ力やスピードなどの身体能力を、監督が買ってくれたんだと思います」

 

そこからの成長ぶりは著しかった。

 

1年生の時には、「ボール回しでも、みんなの足を引っ張っていた」と自覚するほど、足下の技術レベルの差を痛感していたが、当時の東洋大学はボールポゼッションにこだわっていたチーム。試合に出始めたことで、次第にボールを扱う技術は磨かれていき、選手としての自信も身につけていった。

 

 

自信は、新たな目標も与えてくれた。

 

「本気で上を目指そう」

 

サッカーでそう思ったのは、この時が初めてだった。真剣にサッカーに向き合うと、周囲の評価も一気に上昇した。3年生で関東選抜のAチームに選出されると、4年生ではJリーグの複数クラブから練習参加の誘いを受けた。その中で、大分トリニータの練習に参加した際、「オファーを出すから」と早々に言われてプロ入りが決定した。

 

ただ、その裏には“もう一つの物語”が隠されていたのである。

 

元をたどれば、高校3年生の頃の話だ。卒業後の進路を決めるにあたり、若狭は高校でサッカーをやめようと考えていた。「医学療法師の専門学校や、体育教師の資格が取れる大学に行こうかなと思っていました」。だが、同級生GKの視察が目的で試合を訪れていた大学サッカー部のスカウトが見守る中、若狭はGK以上に目立つ活躍をした。

 

「若狭と一緒なら、GKも取るよ」

 

そんな条件を提示したのが、のちに恩師となる東洋大学の監督だった。しかし当初、高校でサッカーをやめようと考えていた若狭は、東洋大に進学するつもりはなかった。

 

実は、進学には指定校推薦を利用しようと考えていた。だが、スポーツ推薦で東洋大に進学すれば、指定校推薦の枠が一つ空く。「ぜひ、スポーツ推薦で行ってくれ」という学校側からの要望があったこと、さらにそのGKから「一緒に来てくれ」と懇願されたこと、そして高校の監督からも「ぜひトライしてほしい」と勧められたことで、やめるはずだったサッカーを大学で続けることになった。

 

ただ、両親からは「サッカーを続けるのなら、3、4年分の学費は自分で払ってほしい」と告げられた。そのため、高校卒業間近から焼肉チェーン店『牛角』で初めてのアルバイトを始めた。仕事は思ったより楽しく、積極的にシフトを入れていく。平均で月に8万円もの収入を得ていたという。大学のサッカー部もアルバイト可だったため、3、4年分の学費を貯めるために必死で働いた。

 

「だから1年生の時はサッカーの練習というよりは、バイトに明け暮れていた感じです(笑)」

 

試合に出られるようになった2年生の時もアルバイトは続けていた。だが練習後、誰よりも早くシャワーを浴び、急いで勤務先へ向かう姿に監督は「もう少し真剣にサッカーに打ち込んでほしい」と考えた。そして、「特待生にするから」と解決策を提示した上で、バイトをやめるよう伝えてきたという。その恩義に心から感謝し、バイトをやめて以降、若狭はサッカーだけに集中した。

 

関東選抜にも選ばれ、それなりに注目を集めていながらも、4年生になった若狭は就職活動を進めていた。「上を目指す」気持ちはありながらも、「サッカー選手なんて、いつクビを切られるか分からない」。その不安から、「安定した仕事に就きたい」と思って生きてきた。

 

ただ、その一方で、就活は苦戦を強いられていた。社会の厳しい現実を目の当たりにしていた、まさにそのタイミングで届いた大分からの獲得オファー。「早く進路を決めて安心したい」と即決だった。

 

とはいえ、本人いわく、実は根っからの「心配性」。「『この先どうなる?』というのがすごく嫌で、とにかく安定がいい。なので、プロ1年目から『次は何をしよう?』という不安が今でも常にあります」。それでも8年もの間、プロの世界で生き続けてこられたのは、両親からもらった言葉が大きかった。

 

「サッカー選手は、なりたくてもなれる仕事ではない」

 

だからこそ、今では「やれるうちは全力で取り組まなくてはいけない。体が壊れるまでやり続けよう」というのがモットーとなっている。

 

「1回ミスをしたら、『次もまたやったらどうしよう?』って思ってしまうんです」。人懐っこい笑顔の裏に隠された心配性な性格。「ここの卓のお皿が空いてるから、デザート伺いやお茶、新しいおしぼりを持って行ったほうがいいなと、常に見るようにしていました」。

 

大学時代のアルバイトで培った気配りと視野の広さ、そして人との接し方。そのすべてが、プレーにも、人間性にも、滲み出ている。その一つひとつが、若狭大志の武器だ。