日本瓦斯株式会社
株式会社ミロク情報サービス
株式会社H&K
ATHLETA
ゼビオグループ
2019.05.25

オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(5/25)奈良輪雄太

第9回  奈良輪雄太

 

 

『やめるときの迎え方を客観的の捉えて決めた進路』

 

文=上岡真里江(フリーライター)

 

中学生の頃から、自分で決めたことは貫いてきた。そのスタンスは31歳になった今でも変わらない。ただ、これまでのサッカー人生で一度だけ、大きく翻意したことがある。大学4年時のことだ。「自分でも不思議なんです」と、当時を振り返った。


名門・横浜F・マリノスのジュニアユースに入ったことを機に、「プロサッカー選手になりたい」という夢が、“目標”へと変わった。本気でプロを目指す中、高校3年生になると、進路を決断する時が訪れた。プロに進むか、大学でサッカーを続けるか……。


「クラブからは『プロの可能性はゼロではない』と言われたのですが、『ゼロではない』と言われている時点で、今の実力ではプロですぐに活躍するのは無理だなと思ったんです。だったら大学に進学し、4年間でしっかりと実力を身につけて、その後にプロになることを目標にやろうと思いました」


人によっては、たとえ低くても、プロになれる可能性がゼロではない以上、プロの世界へチャレンジする道を選択する者もいるだろう。


だが、奈良輪は違った――。

 

 

「僕の中では、『果たしてそれ(高卒からプロ入り)はチャレンジになるのか?』と思っていた。特にあの時は、マリノスが一番強かった時代。僕らは高校生の時に実際にトップの練習に参加していたので、自分がこの選手たちと同じテンション、同じ目線でサッカーができるかといったら、無理だなと思ったんです」


己を客観的、かつシビアに見た上で物事を選択できる人間性こそ、奈良輪の最大の強みと言えるだろう。「どちらかと言えば、入り口よりも、最後にサッカーをやめる時にどう迎えているかのほうが大事」。大学進学に一切、迷いはなかった。


実はこの時、もう一つ、自身の中で覚悟を決めている。


「大卒でプロになれなかったらサッカーをやめよう」


だからこそ日々精進を重ねた。その甲斐もあり、1年時から試合に絡み、3年時までトップチームの試合の大半に出場した。まさに順調そのものだった。あとは4年時の最後の1年で、どれだけ結果を残せるか。自分自身に大きな期待を抱いていた。


しかし――。“まさか”の出来事が待っていた。


4年生になる直前の3月、大学リーグが開幕するタイミングで、中足骨に全治3カ月のケガを負った。これまで特に大きなケガを経験したことはなかったが、順調に回復しても復帰は6月、試合出場の目処が立つのは7月頃だった。大学からプロ入りのルートとしては、夏までにどこかのクラブからオファーを受けるか、練習参加を経て、そこで評価されるか。この、どちらかが通例とされる。そんな大事な時期に奈良輪はプレーできなくなってしまった。


「自分の人生、周囲の人や運に恵まれているタイプだと思っていたけど、どうしてこのタイミングでこんなことになるんだろう……」。事実上、プロ入りが厳しくなった現状に、ただただ「失望でした」。


とはいえ、立ち止まっている時間はなかった。一縷の望みを信じて、一刻も早く復帰することに努めた。しかし、その焦りが、さらなる困難を招いてしまう。コンディションが上がっていない状態で試合に出場した結果、全国大会の初戦で、相手選手をペナルティーエリア内で倒し、PKを与えて退場した。その後、Bチームに降格。以後、卒業するまでトップチーム昇格の声は掛からなかった。


「プロになれなかったらサッカーをやめる」


最初から決めていたことだった。だからこそ、教員免許を取得できる筑波大学を選んでいた。「教員になろうかな」。そう、気持ちが固まり始めた時、最後にもう一度だけ自問自答してみた。


「本当に自分の実力をすべて出し切ったのか?」


その答えは「ノー」だった。


「自分の中で、しっかりと4年間サッカーをやった上で、プロになれるかどうかというのが大前提にありました。でも、ケガをしてサッカーを満足にやり切れなかった最後は選択肢に入っていなかったので、それでサッカーをやめるのは違うなと思ったんです」


そこで当時、J2の1つ下のカテゴリーに当たるJFLで1位だった『SAGAWA SHIGA』のセレクションを受けることをラストチャンスに決めた。「これで受かったらサッカーを続けるし、受からなかったら本当にやめよう」。そして、見事合格したからこそ、今ここにプロサッカー選手・奈良輪雄太がいる。


あの時、踏み止まれた自分に驚くばかりだと奈良輪は語る。「自分の性格、今までの生き方を考えると、本当にあの時やめていてもおかしくなかった。あそこで『まだ続けよう』と思えたことが、人生の中で一番大きかったと思います」。


東日本大震災後に『SAGAWA SHIGA』が解散するという苦境から、25歳でアカデミー時代を過ごした横浜F・マリノスで念願のプロ入りを果たした。湘南ベルマーレ、東京ヴェルディと、今季でプロ7年目を迎えたが、プロキャリアのスタートが遅めで、苦労してきた分、人一倍、冷静な目で物事を捉えている。


「プロで活躍できている人とできていない人との大きな差は、タイミングは違えど困難が訪れた時に、それを乗り越えられるかどうかが大きいと僕は思います。そういう意味では、自分も大学4年のつらい時期を乗り越えられたことが自信にもなりましたし、若い頃に経験できたことも良かったと思っています」


実は、周囲に対してもシビアだ。「各年代代表に入っているような若い子たちがどんどん入ってきて、高校の時はチヤホヤされていたのが、プロになったらなかなか通用しない、試合に出られないとなった時に、どういう顔をするんだろう?どういう行動を取るんだろう?といつも見ています。たいていの選手は負のオーラを出しますが、逆に、それを出さずにはねのける選手を見ると、『この選手は上手くいくな』と思いますね」。


ヴェルディに加入して2年。「日々成長を感じている」と充実した表情を見せる。「個人もチームも、常に上を目指してプレーしたい」と向上心は高まるばかりだ。だが、その一方で「年齢的なことも含めてドライに考えなければいけない部分もあって。背伸びはしないようにしています」と、笑っても見せる。


情熱と潔さ――。抜群のバランスを保つ、そのギャップこそが、奈良輪雄太の最高の魅力だ。