オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(3/30)近藤直也
第3回 近藤直也
『高校3年の春に訪れた運命の分かれ道』
文=上岡真里江(フリーライター)
柏レイソルユースからトップ昇格を果たし、柏の顔として14年間活躍した。2012年には日本代表にも選ばれ、35歳になった今もヴェルディでスタメン起用が続くなど、一見、ポテンシャルに恵まれたDFが、順風満帆にエリートコースを歩んできたように見える。だが、本人は「運のおかげ」だと言って譲らない。それくらい、近藤直也のサッカー人生には、「これがなければ今の自分はない」という転換期が何度も訪れた。
最大の運命の分かれ道は、高校3年生になる春休みだった。
今でこそ、日本でも有数の屈強センターバックとして名がとおっている近藤だが、実は柏ユースにはボランチやワイド、トップ下など中盤の選手として加入していた。現在の182cm、76kgという恵まれた体からは想像し難い170cmにも満たない細身で小柄な選手で、スピードを武器に緩急で勝負するタイプのMFだった。
1年生の時には試合に出られていたが、2年生になり、1つ下に大谷秀和が加入してきたことで状況は一変。瞬く間にポジションを失ってしまった。
サブ生活が続いた中、高校2年の3月、思いがけない転機が訪れた。
当時、トップチームのサテライトの練習に、ユースから数名の選手が参加することが頻繁にあったが、その中に近藤も呼ばれた。対人練習の際、たまたま守備の選手が足りなかったため、DFとしてピッチに入ると、これがサテライトコーチだった池谷友良氏の目に留まった。
「結構、1対1でボールを奪えたり、防げたりというのを見て、池谷さんが『ユースの監督に言っておくから、ユースでもセンターバックやってみろ』ということになった」
「センターバックをやれ」。この一言が、その先の人生を大きく変えることとなる。
言われたとおり、ユースに戻ってすぐにセンターバックにポジションを変更すると、再びレギュラーとして試合に出られるようになった。これまで一度も経験したことのなかったポジションだけに、クロス対応やゴール前でのマークの受け渡しなど、分からないことだらけ。
「とにかく分からないことをなくしたかったので、コーチに聞きまくりました。ある意味、癖のない真っ白な状態だったので、『こういうふうにやれ』と言われたら、それをそのまま全部受け入れた。逆に、やったことがなかったからこそ、すぐに多くのことを吸収できた気がします」
伸びしろしかなかった分、DFとしてみるみる成長を遂げ、周囲の評価も一気に上昇。ポジションを変えた3カ月後の6月には、トップ昇格が内定。同11月にはU-18日本代表に初めて招集されるなど、すべてがとんとん拍子に進んでいった。そこから輝かしい柏でのキャリアがスタートした。
もう一つ、“奇跡”と振り返るのが、中学3年時の出来事だ。
中学時代の好きなサッカー選手は名波浩、中村俊輔といった中盤のレフティーだった。
「左利きに憧れて、左足でばっかりプレーしていたら、左のほうがいいパスを出せるようになってしまって。それでレイソルユースに入るセレクションを受けた時に、『左利きの中盤の選手は貴重だからね』とユースの監督に言われて、合格になったんですよ。2~300人の中で受かったのが2、3人だったので、右利きだということはユースに入るまで隠していました。その時に言ったら、不合格になりそうだったので(笑)」
『運』や『奇跡』と、本人は“たまたま”のように表現するが、決してそうではないだろう。茨城県つくば市の無名中学で背番号10を背負っていた頃から「プロになる」と言い続け、その夢を叶える道をセンターバックに見出したからこそ、自ら貪欲に学び、技術もフィジカルも向上させ、日本代表にまで上り詰めた。
また、レフティーに憧れたら徹底的に練習し、周囲から『左利き』と思わせるぐらい極める探究心こそが、“奇跡”を手繰り寄せたことは言うまでもない。すべて、今でもモットーとする「自分で考えて行動するからこそ、成長する」を貫いてきた結果なのだ。
「僕の人生、他にもいろいろなターニングポイントがあって、結構楽しいですよ」
いい思い出も、つらい経験も、今ではすべてを大らかに受け止める。今年、ヴェルディに加入したことを、のちに『運』、『奇跡』と思えるターニングポイントの一つに加えられるよう、「もう1回ぐらい、いい意味で何かを起こしたい」。新主将としてどんな“強運”を手繰り寄せるのか、とても楽しみだ。