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2019.03.16

オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(3/16)佐藤優平

第2回/佐藤優平

 

 

『エリートコースを外れた大学での4年間』

 

文=上岡真里江(フリーライター)

 

一見すると、“挫折”なのかもしれない。本人も「1つの挫折だった」と素直に受け止めている。だが、それとは比にならないぐらい「良かった」と思える日々が、その先に待っていた。

 

佐藤優平の人生の岐路は、国士舘大学で過ごした4年間だった。セレクションを受け、小学4年生から横浜F・マリノスのアカデミーで育ち、技術を磨いた。世代別の日本代表にも選ばれ将来を嘱望されたが、順調に進んでいた高校3年の時に初めて、いわゆる“エリートコース”から外れた。

 

「同期でずっと一緒にやってきて、同じアンダーの代表にも一緒に選ばれたりしていた(齋藤)学や(端戸)仁がトップチームに上がった一方で、僕一人だけがトップに上がれなかった。恥ずかしさもあったし、悔しさもあったし、羨ましくもあった」

 

いろいろな思いを必死に胸の奥に押し込み、当時、国士舘大学で女子サッカー部の監督をしていた父親の影響を受けて同大学に進学。そこには、今まで味わったことのない刺激的な環境があった。

 


まず、周囲の能力の高さに驚いた。

 

「当たり前のように最初から試合に出られると思ってしまっていたけれど、いざ入部してみたら、僕よりもっとフィジカルが強い人、うまい人がたくさんいて。自分は別に大した選手じゃなかったんだと気づかされました」

 

それでも、Jリーグトップチームのアカデミーで培った高い技術と才能を買われ、1年生の時から試合には出場していた。しかし、佐藤を待ち受けていたのは、サッカースタイルの違いから生まれるカルチャーショックだった。クラブチーム育ちだけに、これまでは“クラブのスタイル”に合わせたサッカーをしてきたが、大学サッカーでは違っていた。

 

「その年、その年で、いい選手がいたり、いなかったりするので、いないなら、いないことに合わせていくスタイルだったんです。でも、そういうスタイルを経験できたことは、非常にいい勉強になりました」

 

実際、最初の年は空中戦を得意とするスタイルだったが、佐藤にとっては経験したことのない戦い方だった。

 

「フィジカル的に、自分はそんなに大きくはない」。試合に出続けながらも、「自分は必要なのか、不必要なのか?」と考える中で、「自分がどういうスタイルに合う選手なのかがはっきりした」と語る。

 

同時に、「それまで当たり前にやってきたサッカースタイルが、当たり前ではないんだなと、初めて知りました」。その後も、自チームに限らず、対戦相手も含めて様々なスタイルや戦い方があることを学んでいった。

 

そんな時に訪れたのが「最も大きかった」と語る、柱谷幸一、哲二、両指導者との出会いだった。

 

大学1年のシーズン途中に幸一氏が実質的な監督に就任すると、戦い方が一変した。ロングボールを主体とするチームから、ボールを大事にするポゼッションサッカーへとスタイルを変えた。「足下を使った綺麗なサッカーをしてくれて、僕はすごく助かりました」。持ち前のテクニクが存分に生きた。

 

その後を引き継いだ哲二氏からは、“闘う”ことを教わった。「哲さんは、つなぎながらも闘うサッカーだった。何よりも走れる選手を求めていたので、そこでスタミナとタフさが身についたと思う」。“華麗さと激しさ”。柱谷兄弟によって植え付けられた、ある意味、真逆ともいえるそれぞれのメソッドこそ、今の佐藤のプレースタイルだ。

 

「もしもユースからそのままプロに行っていたら、何もできないで終わっていたかもしれません。学や仁はトップ昇格後に何年間か試合に出られなくて苦しい時期もあった。あいつらにとってはそれが糧になっているかもしれないけれど、自分は試合に出ながら苦しい時期を乗り越えてきたから、楽しく過ごしてきた」

 

それもまた、「楽しくサッカーをしたい」という、佐藤らしいスタンスではないだろうか。

 

「本当に、大学に行って良かった」

 

大学で学んだ、「技術を上回れるのは、『気持ち』とか『体力』。一生懸命に守備をして、一生懸命に走り切れば、どんなに強い相手でも負かすことができる。それを上回るだけの技術を身につけ、そしてまた切磋琢磨していく」をモットーに、これからも華麗に、タフに、ピッチを躍動し続ける。