『YOUTHFUL DAYS』vol.18 持井響太
『YOUTHFUL DAYS』vol.18 持井響太
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
小学4年生にしてプロになることを本気で意識していた
持井響太は早い段階から高い向上心を抱き、自らのサッカー人生を切り開いてきた。幸いなことに、物心つく前から目の前にサッカーのある環境が整っていた。4歳上の兄がサッカー少年団に所属し、父親がそのチームのコーチを務めていたため、必然的に1、2歳の頃から母とともに練習や試合を見にいくのが習慣になっていた。そして、4歳になった時に兄と父がいる『高砂レッドスター』に入団し、サッカーキャリアがスタートする。
小学校に入学してからもレッドスターに所属していたが、小学校3年生の時に転機が訪れる。兵庫県の中でも有数の強豪チーム『兵庫FC』と対戦して完敗。その衝撃が忘れられず、思い切って「兵庫FCに行かせてほしい」と両親に懇願した。自宅からも通える範囲であったため、返ってきた答えは「YES」。4年生の5月に兵庫FCに移籍したのと同時に、練習に通いやすい環境にある小学校へと転校した。(余談だが、兵庫FCには先輩の梶川諒太も所属していた)。
実は、この移籍によって、早くもプロになることを本気で決意していた。「兵庫FCに行くために、家族に動いてもらった以上、もっと責任を持ってやらなあかんと思いました」。以後、常に「プロになりたい」という意識を持ち続けていた。
兵庫FCが強豪だったこともあり、そのチームで中心選手だった持井には中学校入学を前に「ぜひウチで」というオファーが殺到した。中には、兵庫県で3本の指に入るほどの強豪クラブからの誘いもあったという。だが、12歳にして「自分に合うサッカースタイルのチーム」に強いこだわりを持っていた持井は、自身が「いいな」と思った3チームに絞り、セレクションを受けた。そして選んだのが『イルソーレ小野FC』だった。
「家からは少し遠かったのですが、チームスタイルがすごく自分に合っていたし、その中で自分の武器であるドリブルを活かしたいと思いました。楽しみながら結果が出せるチームだと思って、迷わず決めました」
イルソーレ小野FCでは期待どおり、ドリブルや短いパスをつないで崩す形が自分の武器であることを明確にすることができた。「しっかり考えて決めて正解だったなと当時から思っています」。いま振り返っても、貴重な3年間だった。
高校も「プロになるため」の逆算で志望校を選んだ。「高校の時点である程度注目されていないとプロになるのは無理だろう」という指導者や両親の言葉に共感し、真っ先に浮かんだのが、兵庫県内屈指の名門校・滝川第二高校への進学だった。イルソーレ小野FCを選んだ時とは逆で、「特別自分のプレースタイルに合っているサッカーではなかった」が、「結果にこだわるチーム」をあえて選択した。
滝二では『怯まず驕らず溌剌と』のモットーのもと、学生らしく元気よく、走って走って闘うサッカーを経験することができた。「プロと学生サッカーは違うと思いますが、『怯まず驕らず溌剌と』は、学生サッカーの良いところだと思います。プロになったこれからも、原点に戻るという意味で、このスローガンやアマチュアサッカーで学んだことは大事にしていきたいと思っています」
大学進学を経て一度は諦めたプロの世界に
持井の中では、高校卒業とともにプロ入りするのが理想だった。だが、オファーはおろか、練習参加の声さえかからず、自分の実力と周囲からの評価を受け止めるしかなかった。正直、「大学という選択肢は全くなかった」というが、ここで諦めるわけにはいかない。それまでずっと関西一筋でプレーしてきたが、高校時代に関東のチームと試合をする中で、強度的にも関東のほうが高いことを痛感し、思い切って東京の大学を探すことにした。そして、その年に全国大会で優勝した明治大学を選び、練習参加ののち、合格が決まった。
結果として、この明治大への進学が、持井をサッカー選手として、一人の社会人として大きく成長させてくれることになる。「対人の練習、1対1の練習がめちゃくちゃ多くて、監督・コーチからも僕みたいな選手はボールを持ったら絶対に仕掛けろとか、目の前の相手に1対1で絶対に負けるなというところをすごく重要視していた」。それにより、中学時代に明確にした“ドリブルで仕掛ける”という強みを、試合の中で武器とするためにはどうすればいいのか。その武器を売りにして活躍するにはどうすべきか。真の意味での“武器”の使い方を初めて理解できた。
明治大は不思議と代々サイドバックのプロ入り選手を輩出しており、持井はそうした好選手を先輩、後輩にかかわらず誘い、毎日時間を忘れて1対1を挑んでスキルを磨いてきた。また、「1週間に1回、トップチームとセカンドチームが入れ替わる環境」だったことで常に危機感を持ち、毎日の練習で自分の持ち味を発揮することに必死になっていた日々の積み重ねがプレーヤーとしての成長を促してくれた。
人間的にも、視野を大きく広げてもらった。これまで、自分にとっては「プロサッカー選手」だけが価値あるものだと位置づけてきた。だが、大学時代に大きなケガに二度見舞われ、最も大事な大学4年生時に長期離脱。「全部合わせたら、大学生活の1年弱ぐらいはリハビリをしていた」という。その中で、リハビリを見てくれる人、家族や仲間、周りでサポートしてくれる人々の存在の大切さ、「決してサッカーがすべてではない」ということを思い知った。また、その状況下でも、めげずにしっかりと自分を持ってサッカーに向かう。コツコツと継続するという姿勢だけは崩さなかった。
とはいえ、大学4年生になっても、一向にプロからの練習参加や獲得オファーの話は届かない。さらに「コロナ禍だったので、試合も中止になることが多くて。なので、スカウトの人に見てもらえる機会が少なかった」という不運もあった。受け止めたくはなかったが、目の前にある厳しい現実から目を背けるわけにはいかない。「サッカーで行くか、就職するか」自問自答した結果、「サッカーに区切りをつけて、真剣に就職活動をしよう」という結論に達した。そして、6回の面接を経て、心の底から行きたいと思えた企業から見事に内々定の通知が届いた。「絶対に行きます!」。先方にも満面の笑みで答え、新たな人生のスタートに意気揚々としていた。
その三週間後だった。突然、東京ヴェルディから獲得オファーが届いた。「大学で燃え尽きて、もうサッカーは終わろう」と決心したはずだった。プロへの未練も断ち切ったはずだった。だが、幼い頃からずっと目標にしてきた“プロサッカー選手”になれるチャンスが目の前に訪れたのである。心が揺れないわけがない。
「多少は迷いましたが、すぐに『やっぱりサッカーを仕事にしたい』という気持ちになりました」。3日後、内々定をもらっていた企業に事情を説明し、辞退と謝罪を伝えに行くと、人事部の担当者から「私が逆の立場でも、同じ選択をしていると思う」との理解と温かい言葉をもらい、心の底から感謝が溢れ出てきた。「明治の監督からも『その企業に対してもそうやし、ほんまに覚悟を持ってやれ』と言われました。採用内定を断ったということにも責任を持ってやっていかなければと思いますし、家族やこれまで指導してくださった指導者の方々にも、記事などで取り上げてもらえるように活躍して、頑張っている姿を見せなければいけないなと思っています」
小学生の頃、チームの監督から「サッカーの神様がいる」と教わった。「サッカーだけに限らずですが、やったことは必ず自分に返ってくる。物を大切にする、感謝の気持ちを伝える、挨拶をしっかりするなど、当たり前のことですが、そうしたことをしっかりとしないと、最終的には良い選手にはなれない。自分の行いのすべてがサッカーにつながっている」。そう解釈し、今でも「僕の心の中に生き続けている」と、大学3年次に書いた『明治大学部員ブログ2019』(https://2019choetsublog.blogspot.com/2019/10/3_22.html?spref=tw)で綴っている。
「その神様が、『もうちょっと頑張れよ』と言ってくれたのかなと思っています」
誰も見ていなくても、サッカーの神様はその努力も惰性も必ず見ている。“仕事”になったこれからも、幼い頃から続けてきた『諦めずにコツコツと積み重ねる』真摯な姿勢を継続し、怯まず驕らず、覚悟をもってプロの世界で羽ばたいていく。