『YOUTHFUL DAYS』vol.8 奈良輪雄太
『YOUTHFUL DAYS』vol.8 奈良輪雄太
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
サッカーノートはすでに20冊分以上
日頃、テレビはほとんど見ないタイプだが、たまたまつけたバラエティ番組に出演していた林修さん(予備校講師)の言葉が、やたらと胸に刺さった。「いつやるか? 今でしょ!」のフレーズで2013年の新語・流行語大賞を受賞した林さんが、大学入試を2〜3カ月後に控えた受験生たちに必ず伝えるという言葉だ。
「たかが2〜3カ月頑張れなかったら、今後、大人になっても頑張ることができない。逆に2〜3カ月でしっかり努力するという自信を身につければ、たとえ大学受験に失敗したとしても、その後しっかりと生きていくことができる」
「自分が大切にしていることに近いものがあって、良い言葉だなと思いました。僕の中でも1週間頑張れる人は1カ月頑張れるし、1カ月頑張れたら1年、1年頑張れる人は、結果として何年先も頑張れると思う」
奈良輪雄太には、横浜F・マリノスジュニアユース菅田に所属していた中学1年生から現在まで、20年来継続していることがある。一つは練習の仕方だ。「パス練習の時に、当時のコーチから『利き足の右だけで蹴るな。両足で蹴れた方が良いに決まっているんだから、左右同じだけ練習しろ』と言われて、今でも何気ないキック練習の時は、必ず右と左を交互に同じ量だけ蹴るというのをやり続けています」。そのおかげでプレーの幅が広がって、プロになってから左サイドで出ることも多くなった。
そしてもう一つは、毎試合サッカーノートをつけること。これも当時の指導者に言われて始めたことで、練習試合、公式戦にかかわらず、試合ごとに必ずA4サイズの紙にその試合で印象に残ったことや感じたこと、時には愚痴などを書き記してきた。ここまで1試合も欠かさず書き続け、その数はノート20冊分以上にもなった。「本当に自分の大切な財産。今でも、ちょっと困難にぶち当たった時などに読み返したりします」
自分自身が大切だと思うことに信念を持ち、継続してやり通す。その人間性を支えてきたのは、「サッカーで上にいきたい」という高い向上心と競争意識だった。
小学校1年生の時に地元・横浜の街クラブでサッカーを始めたが、横浜市選抜のセレクションに合格した5年生の時に、人生初のカルチャーショックを受けた。
「自分がそれまで教わっていたサッカーは、攻撃はドリブルしてシュートをする、GKやセンターバックの選手は、とにかく相手コートのできるだけ遠くにボールを飛ばせ、というもの。上手い子が前のポジションをやって、下手な子が後ろをやるみたいな、体育の延長線のようなレベルでした。それが当たり前だと思っていたのに、選抜チームでは同年代の選手が、GKからサイドバックやセンターバックにボールをつないで、そこから前に進むみたいな訳の分からないことをやっていた。それに対して、かなりの衝撃を受けました」
その後、F・マリノスジュニアユースに入った時にも、周囲の選手のレベルの高さに愕然とした。「僕もどんどん技術を身につけなければいけない」と焦りが芽生えていたところに、川合学コーチから救いの一言をかけられた。当時、まだ現役を引退して間もなかった同コーチの教えは、“選手目線”として少年の心にストンと落ちた。
「技術も大事だけど、必ずしもそこだけが重要というわけではない。あまり考えすぎず、思い切りサッカーをすればいい」
子どもながらに解釈力に長けていた奈良輪は、その時点で「自分の持ち味を伸ばすこと、自分に足りないもの、必要なものを補うこと。この二つをしっかりやっていけば、上でもやっていける」ということを確信したという。結果として、それが今の自分につながっている。
また、中学1年生の頃から常に考えていたのが、「同年代の選手が14~15人いる中で、ユースに上がれるのは2~3人。その2~3人の中に自分が入るには、どうすればいいんだろう?」ということだった。川合コーチのアドバイスも参考に、「技術で勝負しても正直厳しい。だったら何だろう?」と自問自答した結果、導き出した答えは「走ること」だった。「走りで絶対に1番になろう」。そう決心すると、そこからすべての情熱を“走力”に注ぎ込んだ。
学校の図書館でスポーツの本を読み漁り、帰宅後はパソコンで検索し、「どうすれば心肺能力が高まるか」について詳しく勉強した。幸いなことに、「心肺機能は中学生の時期が最も伸びる」という知識を得て、「今が最高のタイミング」とばかりに、翌日から「毎日、朝と練習前、必ず3キロ走ってからマリノスの練習に行く」というルールを自らに課し、中学3年間やり抜いた。
決めたことをしっかりとこなすことでつけた自信は、着実にサッカーのパフォーマンスに好影響を与えた。たゆまぬ努力が身を結び、ユース昇格の狭き門を勝ち抜いた。
努力すること、継続することは必ず生きてくる
ユースに上がると、それまで『夢』でしかなかったプロの世界が『目標』へと変わった。「サッカーで生きていきたい」と自らの意思でしっかりと目標設定すると、「そのためにはどうすれば良いんだろう?」と、これまで以上に考え、日々取り組むようになった。
とはいえ、プロになるのは決して簡単なことではない。時には壁にぶつかり、自信を失いかけた時期もあった。その際も、身近な指導者に救われた。「自分より、ちょっと上手い奴がいても、少しぐらいの技術の差は、走りでいくらでも埋めることができるから大丈夫だ」。その一言で、「自分が武器として磨いてきたものは間違いではない」と自信を取り戻すことができた。事あるごとに、絶妙なタイミングで助言をくれる人や知識との巡り合わせも、奈良輪自身の精進が手繰り寄せた賜物だろう。
26歳で念願のプロ入りを果たし、今年で34歳になる。これまで、思考も生活もすべてをサッカーに費やし、誰よりも己に厳しくここまでキャリアを積み重ねてきた。そこには何一つの後悔もない。だが、もし子ども時代に戻れるなら、「もうちょっと楽をして生きたいなと思います(笑)」と話す。少しずつ価値観に変化が生まれつつあることもまた事実だ。
あらためて幼少時代を振り返ってみる。「プロのアスリートになってほしい」と我が子の将来を願っていた体育教師の父親は、そのために子どもの頃からたくさんの環境を与えてくれた。小学校に入る前には、よく山や川などに連れて行ってもらい、大自然の中でたくさん遊ばせてもらった。それが、身体能力を伸ばす要因にもなった。
最も感謝しているのが、一度も勉強を強制させられなかったことだ。そのうえで、教員だった父は、小学校3年生頃まで、勉強そのものではなく、“勉強の仕方”を教えてくれた。「自分で教科書を予習して、学校の授業で復習する」という勉強法が、中学生の頃にはすでに身についていた奈良輪は、「プロサッカー選手になっても、サッカーだけの人間になりたくない」と考え、自ら進んで勉強した。
勉強でも運動でも、常に「楽しさ」を教えてくれて、あとは自主性に任せてくれた。そんな両親への感謝の念は尽きない。今では奈良輪も二児の父。愛する娘と息子を、自分が両親にしてもらったのと同じように育てていきたいと思っている。そして、自身の経験を通して、夢を持つ子どもたちやその両親に伝えたいことがあるという。
「努力すれば必ず夢や目標が叶う、とは口が裂けても言えない。でも、努力すること、何か自分が大切だと思うことを継続して行うことは、たとえそれが達成できなかったとしても、“人生”という大きな括りで考えたら、必ず生きてくる。子どもの頃に何か一つのものに打ち込む、努力する、継続するというのは本当に大切だと思います。子どもには、まだピンとこない話かもしれませんが、親御さんはぜひ、そういう目で子どもたちを見てあげたらいいのかなと」
『継続は力なり』。奈良輪雄太のサッカーキャリアは、まさにその象徴だ。