『YOUTHFUL DAYS』vol.4 ンドカボニフェイス
『YOUTHFUL DAYS』vol.4 ンドカ ボニフェイス
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
「言いたいことが言えなかった」少年時代
両親が共働きだったため、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられた。その影響で、幼稚園の頃はテレビの前で毎場所相撲漬け。なりたかった職業はもちろん「相撲とり」で、自分の中のアイドルは「千代大海関」だった。
そんな幼い日の記憶を遡ると、そのたびに真っ先に思い出す出来事がある。近所の友だちと遊んでいた時のことだ。「もう帰るよ」。帰宅を促すために親が迎えに来たが、ちょうど自分が貸したキックボードを友だちが使って遊んでいたため、どうしても「返して」の一言が言えず、帰ることができなかった。
ナイジェリア人の父、日本人の母の間に生まれた。物心がついた時から「周りと違う」と感じ、常に「自分がどう見られているのか、周りの目をすごく気にしていた」という。いつの間にか、「言いたいことが言えない」性格になっていた。そんなンドカ少年の心の内を知ってか知らずか、家に帰ると父親からはっきりと指摘された。
「お前は考え方が日本人だ。言いたいこと、思ったことを自分の言葉で言えない。ナイジェリア人だったら何でも言える。お前にはその血が入っているんだから、もっとナイジェリア人みたいになれよ!」
その日以降、事あるごとに言われ続けたその指摘が幼心にショックだった。そんな自分の性格が嫌で仕方がなかった。そして、固く決意した。「絶対に言いたいことが言えるポジティブな性格になって、親や周りからの見方を変えてやろう」と。
それを実現させてくれたのがサッカーだった。定かではないが、たしか小学1年生ぐらいだったと記憶している。仲の良かった従兄弟が所属する『越谷サンシンサッカースポーツ少年団』に加入したのが始まりだった。決して強いチームではなかったが、みるみる頭角を現し、チームで1、2を争う中心選手になり、試合で活躍するにつれて、自身の中に確固たる自尊心が湧き出てくるのを実感した。
私生活では相変わらず引っ込み思案だったが、サッカーをやっている時だけは、喜怒哀楽を誰よりも表に出せる自分がいた。それはゴールを決めたり、試合に勝ったりすることによる「うれしい」「楽しい」とはまた別の感情だった。
「僕、昔からサッカーを楽しいと思ってやった記憶がないんです。僕にとってのサッカーは、『自分の存在価値を証明する手段』。特に小さい頃は、嫌なことや落ち込むことがあった時に、「俺はサッカーで活躍すればいいや」とポジティブに考えるための材料でした」。その価値観は25歳になった今も変わらない。
なぜサッカーだったのか。自らに問いかけた結果、「たまたまサッカーだったというだけで、サッカーじゃないといけない理由はなかった」という。それでも、サッカーに自らの存在意義と将来性を見いだしたンドカ ボニフェイスは、ごく当たり前のようにプロを目指すようになった。
高校時代に『心・技・体』の根幹を学ぶ
ただ、今にして思えば、小・中学生時代のプロへの思いには何の根拠もなかった。特に中学時代は、大宮アルディージャのジュニアユースに所属しながら、「下手で全然通用しなくて、毎日自信がないままサッカーをやっていた」という。結果、ユースへの昇格は果たせなかった。
しかし結果として、それがプロという世界を本格的に意識するきっかけとなる。
大宮ジュニアユース時代、浦和東高校との練習試合でのプレーを見た当時のコーチから「お前はここの高校が合っているんじゃないか」と薦められた。その縁で、埼玉県の強豪・浦和東高への進学を決めた。不遇な中学時代を過ごしただけに、実は自ら「環境を変えたい」と願っていたのも事実だ。「絶対に見返してやろう」という強い気持ちを原動力に、がむしゃらにサッカーに打ち込んだ。現在につながるプロサッカー選手としての『心・技・体』の根幹のすべては、この高校時代に手に入れたと確信している。
特に『心』では、自信を持つことの重要性を学んだ。きっかけは高校1年生の終わり頃だ。1年生ながら3年生のチームに混じって練習をする中、埼玉県選抜に選ばれた。そこで、大宮ユースに昇格したジュニアユース時代の旧チームメイトや、浦和レッズユースの選手など、中学時代に敵わなかったメンバーと一緒にやってみると、遜色なくプレーできたのである。
「全然やれる。このままやっていれば、本当にプロになれるんじゃないか」。サッカーに関しては元々ポジティブシンキングだったうえに、自信が加わったことで、プレー自体もさらに積極性が増し、評価を上げていった。
「メンタル」という意味では、当時グラウンドに掲げられていた横断幕の『理不尽 愚直 精進』というスローガンにも多大な影響を受けた。「例えば練習中、理不尽な走りをさせられるのですが、その中でもめちゃくちゃポジティブにやるという精神です。人間誰しも良い時は良い行いをするけれど、苦しい時にどういう態度を示すかが大事だ、という教えだったと思います。自分の中ではそれがすごく心に残っていて」。そうやって、前を向いて笑っていられるメンタルを築いてきた。
『技』の面では、現在の自分の一番の売りと言える“ヘディング”という武器を授けてもらった。「入った時に、監督から『ヘディングが強い奴は絶対に試合に出す』と言われました。実際に、練習時間の半分ぐらいをヘディングの練習に使うんですよ。僕の場合は、その中でどんどん上達して、自信をつけていきました。それまで自分には、“コレ”という絶対的な特長がなかったので、武器を作ってもらって本当に良かったと思います」。今でも全体練習後には、個別でディング練習に励むボニの姿がある。
その後、日本体育大学を経て2018年、水戸ホーリーホックで念願のプロ生活をスタートさせた。「ナイジェリア人みたいになれ!」という父の言葉を意識するあまり、ピッチ上での感情のたかぶりをコントロールできず失敗したこともあったが、今ではナイジェリア人の熱さと日本人の冷静さ、「僕が持ち合わせている両方の気性」のバランスが取れるようになってきた。
2021年、自身の存在価値をさらに高めるべく、東京ヴェルディへの移籍を選んだ。永井秀樹監督から求められるのは、センターバックとしてこれまで自分がやってきたこととは大きく異なる。
「すごく単純に言えば、攻撃と守備の差だと思います。水戸では守備を求められていましたが、ヴェルディではもちろん守備もですが、チームのスタイル的に攻撃の立ち位置やパスを出すコースのほうをより求められます。前のチームではリスクを負わず前にボールを運ぶ、あとは守ることに集中するという感じでした。それが今は、ボールを失わずよりスムーズに前線へ出ていく。一番の違いはボールを持った時の要求ですね」
求められるものの変化を理解し、しっかりと適応できているという手応えはある。第5節終了時点でヴェルディでのデビュー戦は迎えられていないが、いつでも試合に出られる準備できている。
「今年活躍しないとサッカー選手として先はないと思う。ヴェルディとしても上を目指している時期だと思うので、チームと共に飛躍したいと思います」
幼い頃から「自分とは何か」を自問自答してきた。その答えをピッチ上の自分に求め、これからも深く追及していく。