『YOUTHFUL DAYS』vol.3 福村貴幸
『YOUTHFUL DAYS』vol.3 福村貴幸
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
いつも「楽しい」がセットだった少年時代
「もっと練習しなさい!」
「あんた、暇してるんやったら走ってきぃ!」
もっともよく憶えている、子どもの頃の母の言葉だ。家でダラダラしたり、暇そうにしていたりすると、必ずといっていいほど飛んできた。それに対して「いや、暇じゃないしー」と言い返し、ダラダラしまくる。そんな漫画の一場面に出てきそうな、ごくごく“普通の”少年だった。
そこには幼少期からJクラブのアカデミーに所属していたというような、いわゆるエリート選手たちに見られるサッカーへの“ストイック”さはほぼ感じられない。福村貴幸本人も、「全部が一生懸命とういわけでもなかったと思います(笑)」と振り返るほどだ。だが、それがイコール、「練習しなかった」ということでは決してなかった。
記憶をたどると、福村の選択や行動は、いつも「楽しい」がセットだった。
小学校3年生の時、友だちから誘われたことがきっかけでサッカーを始めた。だが当時、水泳に通っていた貴幸に両親は、「全種目泳げるようになったら水泳をやめていい」という条件を出したという。「体力がつくから」という親の考えの影響で、姉と弟と3人、全員が水泳からスタートしたが、「泳いでいる時は周りも見えへんし、水の中で一人の世界」には正直、楽しさを見出せずにいた。そんな中で誘われ、たくさんの友だちと一緒にワイワイできるサッカーがいかに魅力的だったか。サッカーをするために必死でスイミングに打ち込み、小学3年生が終わる頃には、見事にすべての泳ぎ方をマスターしていた。
晴れて小学4年生から『ミュートスサッカークラブ』に所属したが、決して抜きん出た存在ではなかった。むしろ、その逆と言ってもいいぐらいだった。「同じ学年に上手い子が3、4人ぐらいいて。その証拠に、小学生の頃って上手い選手はオフェンスになるものですが、僕はずっとディフェンス。センターバックやサイドバックでした」。それでも練習に行くのは楽しかった。
「正直、下手だったので、今思うとサッカー自体は楽しくなかったと思います。でも自分の中では、サッカーをやっているというよりは、その場に行ってコーチや友だちと遊んでいるという感覚だったので、それがすごく楽しかったんです」
おかげで、サッカーを好きなまま中学校に進学。おのずとサッカーを続けることを選んでいた。部活動という選択肢もあったが、ミュートスサッカークラブの一つ上の先輩が所属していた『FCグリーンウェーブU-15』に練習参加した時の楽しさが忘れられず、自宅から通うのに自転車で40分以上かかるにもかかわらず入団。理由はただひとつ、ただただ「楽しいから」だった。
ただ、そこでの「楽しい」は、小学生の頃とは明らかに別物だった。星原隆昭氏の指導の下、初めて本当の意味での“サッカーの楽しさ”を教えてもらった。「小学生の頃なんて、リフティングも100回できるかできないかくらいでした。でも、中学では技術練習が多くて、そこからボール回しの楽しさや、技術が上達する楽しさ、駆け引きの楽しさなどに変わっていきました」。止める、蹴る、見るといった、サッカーの基本中の基本だが、「もっとも大切な要素のすべては中学時代に学んだ」と確信している。
もうひとつ大きかったのが、ボランチとして起用されたことだった。小学生時代はセンターバックやサイドバックなどDFだったため、「頑張って守るぞ!」と、来た球を撥ね返すことに専念していたが、ボランチは「ボールにいっぱい触れるし、自分が試合やチームをコントロールできるし、ラストパスも出せる。何より、自分がフォーメーションの真ん中にいるということが一番嬉しかったです」
乾いたスポンジが水を吸収するがごとく、練習をすればするほど、技術は目に見えて身についていった。その技術向上を遺憾なく発揮できるボランチというポジションが、さらに急速な成長を促してくれた。中学2年時には、先輩の代の試合にも出られるようになり、周囲からの評価も次第に上がっていった。
何のために勝ちを目指しているのかを意識する
高校はグリーンウェーブが週1回練習でグラウンドを使用していた縁で、大阪桐蔭高校を選んだ。「当時、まだ人工芝が普及している高校が少ない中、大阪桐蔭はその環境が整っていたので」。そして、高校時代にもまた、もうひとつの大きなターニングポイントが待っていた。2年生時、『全国高校サッカー選手権』に出場したことである。
「僕の中では、あの時選手権に出たことが、人生のすべてだと思っています。そこから、見てもらえる機会が一気に増えました」
その後、U-18日本代表候補にも選出されたが、その時に強く胸に刻まれた教訓は今、ぜひとも少年少女に伝えたいことだ。
「高校生の時にU -18に入って思ったのは、全国に行ったらもっとすごい人がいるということでした。小・中・高校生の子たちには、例えば今、大阪である程度できるんやったら、『違うところには、もっとすごい人がいる』と思って、自分の範囲を広く持ってサッカーに取り組んでほしい。まずはチームで一番を目指して、そこに近づいたんやったら、次は地域で一番を目指す。地域で一番に近づいたんやったら、都道府県というふうに、無限の可能性を追い求めていく意識がすごく大事だと思います」
中学時代に徹底的に基本技術を、高校時代に向上心を、というように、それぞれプロとして必要なスキルを着々と身につけ、高卒でプロ入りを果たした。冒頭の言葉どおり、「全部が一生懸命とういわけでもなかったと思います」と、自らの練習熱心さを否定するが、実はそうではない。
「16:30から練習開始だったのですが、毎回30分前ぐらいに行って、友だちと2人組でずっとボールを蹴っていました。高校時代も、練習が長いと感じたことはありませんでしたね」
つまり、“練習”という意識よりも、「楽しいことをしている」という感覚で自ら進んでやっていたからこそ、「必死で練習した」という実感がないのだろう。だが実際にボールに触っている時間は、周りから見ても非常に長かった。
今季でプロ12年目を迎えた。30歳を前に、目標も少しずつ変化しているようだ。「目先の勝利ももちろん大切ですが、やはり何のために勝ちを目指しているのかを、もっと自分の中で意識してやりたい」
「試合の結果によって、大差で勝てばすごく嬉しかったり、大差で負けたらすごく悔しかったりするかもしれないですが、その先には常に『優勝するために』というひとつの大きな目標を考えてやることが大切なんじゃないかなと思っています。例えば3−0で勝っていても満足せずに、優勝するためにはもっと点を取らなければいけないと思いますし、0−2で負けていたら1点を返す。その1点が最終的には得失点差の優劣につながるかもしれません。一番大きな目標を忘れずに、1年間やっていかなければいけないと思っています」
東京ヴェルディに来て2年目。最高の仲間たちとともに、『優勝』という至福の瞬間を楽しみたい。