『YOUTHFUL DAYS』vol.15 若狭大志
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
外遊びの延長で始めたサッカー
缶蹴り、ドロケイ、リレー、お父さんとバッティングセンター……。学校がある平日の放課後は、毎日とにかく外遊びに明け暮れた。そんな小学生時代の若狭大志少年にとって、サッカーはその延長のようなものだった。2年生の時、通っていた小学校で活動を行うサッカー少年団に入ったのも、毎日一緒に遊んでいた2つ上の近所のお兄さんの後を追っただけだった。
練習は土曜日と日曜日のみ。試合の勝ち負けには全く重きを置いておらず、何より『みんなで楽しむこと』『仲良くすること』が活動方針のチームだった。そんな“仲良しこよし”の環境の中で、若狭の負けず嫌いの性格は際立っていた。練習でミニゲームをした時のエピソードだ。「チーム分けをした時点で、僕のチームはサッカーができない子たちが集まっていて、明らかに弱かったんですよ」。それを理由に「こんなチームじゃ勝てるわけがない」と不貞腐れた態度をとり、コーチの逆鱗に触れて大目玉をくらったことは、忘れられない苦い思い出だ。
中学校に進学しても、サッカーのプライオリティーはさほど変わらなかった。実は小学6年生の頃、明らかに周りの子よりも上手かったため、卒業を機に「クラブチームに行きたい」と両親に相談したことがあったが、母から「そんなに真剣にサッカーはやらないでしょう?」と却下された。自身もそこまで強い意志があったわけではなかったため、「そっか。じゃあ中学校の部活でいいや」と、あっさり引き下がった。
部員数は少なく、顧問の先生は元ラガーマン。専門的な技術練習は一切なく、練習は毎回ミニゲームという典型的な『部活動』だったが、特に何の不満もなかった。今改めて振り返っても、「小学校、中学校時代のサッカー歴で何かを得たかと言われたら、何もない」と断言できる。
そんなサッカー人生に変化をもたらしてくれたのは、小学校時代に通っていた少年団のコーチだった。浦和学院高校の指導者が高校時代の同級生という縁で、『スポーツ推薦』の話を通してくれたのである。浦和学院は、決して全国レベルの強豪校ではなかったが、若狭自身はこれまで本格的にサッカーに向き合ったことは皆無の身である。同枠で入学してくる生徒の多くは、少なからずクラブチームなどで才能を見いだされた特待生であり、正直、その実力差に不安や迷いがあったという。だが、「私立校で入学費を免除、授業料が半額というのは親孝行にもなるし、何よりも受験勉強をしなくていいのが大きかった」。魅力的な条件がそろい、すぐに「行きます」と答えた。