『YOUTHFUL DAYS』vol.14 佐藤凌我
プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。
取材・文=上岡真里江
強くないチームで得た経験値を足がかりに…
甘いマスクいっぱいに溢れる爽やかな笑顔、前向きな発言、一心不乱にゴールを目指す姿勢。佐藤凌我には『天真爛漫』という言葉がピタリとはまる。小学生の頃からJリーグクラブ傘下のアカデミーに所属し、そのままストレートでトップチームに昇格を果たすというような、いわゆる“エリート”のレールを歩んできたわけではない。だが、小・中・高校、大学と、たどってきたそれぞれの環境の中で、授かった才能を輝かせ、自らの力でプロ入りの夢を実現させた。
佐藤には1つ上の兄がいる。4歳の頃、自身の母と兄の同級生の母親たちの要望により、通っていた幼稚園にサッカーチームが立ち上げられた。それがサッカーキャリアの始まりだった。
初代の年長組(2つ上の代)が小学校に上がるとともに、そのまま同チームの“小学生の部”が誕生。佐藤も当然のように、小学校入学後も続けて『FC龍南』に所属した。ただ、まだできて間もないチームである。特に初代の2つ上は2〜3人、その1つ下の代は5〜6人と部員数が少なく、佐藤が4年生の頃には、常に上の年代の試合に出ているような状況だった。4年生と6年生とでは体の大きさが明らかに違う。「本当にボロ負けすることも少なくなくて、0対25で負けたこともありました」。今でも決して忘れることのない、苦い思い出だ。
それでも、仲間たちと一緒にやるサッカーは楽しかった。さらに幸いなことに、早くから試合に出られた分、自身の代が6年生になると、徐々に勝てるチームになっていた。
中学校に上がるタイミングでアビスパ福岡アカデミーのセレクションを受けたが、三次で不合格。他のクラブチームに行くという選択肢もあったが、ずっと一緒にやってきた兄がすでに中学校のサッカー部に入っていたため、後を追って福岡市立次郎丸中学校のサッカー部に入部することを選んだ。一番の理由は、「親のことを考えて」だった。「兄と僕、部活とクラブチームと2つに分かれてしまったら、土・日で試合が絶対にかぶるから親が大変じゃないですか」。それは、試合の送り迎えや応援、当番など、世話をかけている両親への感謝の心があるからこその選択だった。
入部したチームは強くなかった。「福岡市に中学校が100校ぐらいある中で、2校だけ市の大会にすら出たことがなくて、ウチの学校がそのうちの一つでした」。だが、今にして思えば、実はこの環境こそが大事なターニングポイントだったと佐藤は受け止めている。
小学生の頃から背が高く、年上との試合に出続けていた経験値は中学でも十分通用した。まして、レベルの高くないチームである。1年生の時から3年生の試合に出ることができた。その活躍によって、福岡市のトレーニングセンター(トレセン)メンバーに選ばれるようになったのだが、中学校の部活、つまり“中体連”から選ばれていたのは、佐藤を含めても2〜3人。「『中体連でも、これくらいできる奴がいるんだ』という感じで、目立つことができたんだと思います。もしあの時にクラブチームに行ってしまっていたら、逆に周りのうまい選手に埋もれてしまって、今の自分があるかと言われたら、そんなに自信はないです」