日本瓦斯株式会社
株式会社ミロク情報サービス
株式会社H&K
ATHLETA
ゼビオグループ
2021.11.25

『YOUTHFUL DAYS』vol.13 深澤大輝

『YOUTHFUL DAYS』vol.13 深澤大輝

 

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

取材・文=上岡真里江

 

今でも鮮明に憶えているヴェルディ・ジュニア時代

 

深澤大輝にとって、東京ヴェルディとの出会いは『ディフェンダー』との出会いそのものだ。小学校4年生でヴェルディジュニアに所属してから約13年、小、中、高校、大学、そしてプロになった今に至るまで、DF一筋を貫いてきた。

 

サッカーボールを蹴り始めたのは4歳の頃。サッカーをやっていた父の影響で、幼稚園の時にサッカー教室『JACPA(ジャクパ)』に通い始めたのが始まりだった。小学校に上がると、並行して『西原少年SC』にも所属するようになる。上級生の試合に出ても活躍できている我が愛息子に、父は東京ヴェルディジュニアのセレクションを受けることを勧めた。

 

当時、畠中慎之助、安西幸輝、高木大輔、菅嶋弘希、澤井直人らを擁した3つ上の代が、『全日本少年サッカー大会』で優勝したこともあり、ヴェルディジュニアの存在は印象深いものではあったが、深澤本人にとっては「自分からセレクションを受けたいというほどでもなかった」のが正直なところ。だが、勧められるがまま受験し、一次、二次と通過していくうちに、いつの間にか楽しんでいる自分がいた。そして、合格が決まった瞬間には、心から「ここでサッカーがやりたい!」と思えた。

 

ヴェルディジュニアでの日々は、今でも鮮明に憶えているほど楽しかった。自宅がある東久留米市から練習場までは1時間弱かかるため、遊ぶ時間などほとんどなく、学校から帰ってランドセルを置くとすぐによみうりランドへ向かった。それでも間に合わない時は、学校まで親に迎えに来てもらい、車で送ってもらうことも少なくなかった。時には早退しなければいけない時もあった。「とにかく早くヴェルディグラウンドに行きたい」。ただその一心だった。

 

当時を回顧すると「ずっとグラウンドで何かをしていた記憶」しかない。「ボール回しとか、とにかく常にみんながボールを蹴っていました。午前中の練習でも、帰るのは夕方ということがしょっちゅうでしたね」

長い時間チームメイトたちと一緒にいることがこのうえなく楽しかった。当時、通称“シロカケ”という、ヴェルディグラウンドから最寄り駅近くのバス停『城下』までを、鬼を決めて鬼ごっこをする遊びのようなものが流行っていて、特に5、6年生の誰かが「やろう」と言ったら絶対だった。練習後の坂道(常に下り坂。徒歩20〜30分)の鬼ごっこは、いくら育ち盛りの小学生でもなかなかハードであることは想像に難くない。それでも、「きついな~」と思いつつも、みんなと一緒だからこそ楽しんでいた。それも今となってはかけがえのない思い出だ。

 

現在も変わらないDFとしての価値観

 

グラウンドでは早くからDFに楽しさを見いだした。チームの中で体が大きかったこともあり、ジュニアに入った時から後ろのポジションを任された。小学生の試合は8人制のため、DFであっても攻撃する機会は多い。もちろん「攻めることも、点を取ることも好きだし、楽しかった」が、それ以上に充実感を得られたのが守備だった。「インターセプトした時のうれしさや、チームが苦しい状況の時にシュートブロックをして助ける気持ち良さが、僕にとっては点を取るのと同じぐらい魅力的でした」。その価値観は、13年経った今も全く変わっていない。

 

中学生になってジュニアユースに上がると、DFとして何が必要かを自ら考えるようになった。

 

まず、必要性を感じたのはヘディングだ。周りが一気に成長期を迎えたこともあり、気がつくと、小学生の時に武器だったはずの背の高さは武器でなくなっていた。「小さいからといって、ヘディングで負けたくない」。中学2年生から、“ペンデル”という紐にボールがぶら下げたヘディング専用の練習器具を使い、毎日ひたすら空中戦に競り勝つすべを磨いた。その練習はユースを卒業するまで続いた。

 

また、練習前後や普段何気なく行っているボール回しで鬼(中に入る人)をやる際には、「予測やアジリティーを見につけるチャンス」と意識してやるようにした。こうした全体練習以外のところでの意識の高さが、より一層成長を促した。実際、中学2年生の頃から一つ上の代の試合でも起用されるようになり、中学3年生ではキャプテンにも任命された。高校生になってユースチームに上がると、1年生時から試合に出場するほどの有望株になっていた。

ユースでは試合に出ながら非常に多くのことを学んだ。中でも大きかったのが、2学年上で、センターバックとして一緒にプレーした三竿健斗(現・鹿島アントラーズ)の存在だ。「当時、健斗くんはケガや世代別代表の活動でチームにいないことが多かったのですが、いる時の存在感がすごくて。彼一人いるだけで、あんなにも安心感が違うんだなぁと、“心強さ”を感じました」。DFとして、また主将としてチームをけん引する立場を経験している深澤には、その重要性を強く感じずにはいられなかった。

 

もう一人、衝撃を受けたのが、中野雅臣(現・いわてグルージャ盛岡)だ。「雅臣君は、FWですごく点を取ってくれていましたし、インテリジェンスがすごくて。僕はまだ高校1年生で何も分からない状態でしたが、3年生と一緒にサッカーをすることで、いろいろなことを感じましたし、いろいろなことを教えてもらうことができたと思っています」

 

プロへの道を切り開いた大学4年間

 

その後、高2、高3と、DFの要として試合に出続け、高3時には再びキャプテンを務めた。自身も「順風満帆だった」と認めるほどの華やかなサッカーキャリア。しかし、『プロ入り』という大きな夢の実現が視野に入ってきた一番大事なところで、まさかの通達を受けた。

 

忘れもしない、高校3年生の夏。石川県和倉で行われていた『和倉ユース』の大会中に、当時ユースの監督だった藤吉信次前東京ヴェルディコーチと、同コーチの小笠原資暁現ジュニアユース監督に呼ばれ、「トップには昇格できない」と告げられた。ヴェルディに入ってから、プロになることだけが唯一無二の目標だっただけに、ショックは大きかった。

 

だが、今にして振り返ると慢心もあった。「一つ上の代で、井上潮音くん(現・ヴィッセル神戸)や林昇吾くんら3人がトップに上がっていたので、正直『自分も上がれるんじゃないか』と思ってしまっていた。あの時の僕には、謙虚さが足りなかったと思います」

こんなふうに、当時の自分の思い上がりに気づき、しっかりと向き合って立ち直れたのは、他でもない、大学での4年間があったおかげだ。「大学1、2年の時は試合に出られなかったのですが、『出られなくても、毎日成長する』というマインドで練習に取り組み、チャンスが巡ってきた時にどうやってつかむかを考えました。紅白戦でBチームがAチームに対してどう戦うか、それを考えることがチームの底上げに大きくつながるということも学びましたし、メンタル面はすごく成長することができたと思います。そして、3、4年で試合に出続けたことで、サッカーのプレー面でも向上できました。今は、大学に行って良かったなと思っています」

 

深澤は高校時代の挫折を『ユースからそのまま昇格していたら得られなかった武器』に変え、プロ入りの夢を叶えた。だが、唯一後悔していることもあるという。「僕がジュニアユースの時に、ジュニアのコーチだった萩村滋則さん(現・浦和レッズユースコーチ)から、DFにとって大事なのは『寝ることと牛乳を飲むこと』と言われていたのですが、僕はそれをあまり真剣にやらなかったんです。その結果、身長(公称174センチ)が伸びなかったので、もっと信じてやっておけばよかったなぁと…」。ちなみに、萩村氏の身長は183センチ。「身長が高くなりたい」と思っている少年・少女は、ぜひとも参考にしてみてはいかがだろうか。

 

 “プロサッカー選手”となって4年ぶりに故郷に帰ってきた。クラブハウスでジュニア世代の子どもたちから「あ、深澤選手だ!」と声をかけられるたびに、その少年・少女に幼き日の自分の姿を重ね合わせる。「もうなくなってしまったけど、以前はクラブハウスに『ヴェルディーノ』というグッズショップがあって、僕も小学校4、5年生の頃はそこでフッキとかいろいろな選手のカードを買って、実際にその選手にサインをもらったりしていたので、今のジュニアの子たちの気持ちがすごく分かります」。そして、同時に強く思う。「だからこそ、僕みたいにジュニアからヴェルディにいる選手は、試合に出て、結果を出して、チームをJ1に昇格させて、J1で戦える、J1で優勝するチームにしていくことが使命だと感じます。そのためには、もっとやらなきゃいけない」。たくさんの夢をもらってきた分、これからは自分が憧れられる存在、夢を与えていく存在になることも、今後の大きなモチベーションの一つだ。

ルーキーイヤーの今年は加入早々のケガもあり、ここまで5試合の出場にとどまっている。正直、自らの思い描いていたとおりのプロキャリアのスタートではなかった。それでも5月16日のJ2第14節北九州戦で念願のデビューを飾り、味の素スタジアムのピッチに立ち、勝利の瞬間を味わえたことで、「本当の意味でヴェルディの一員、プロサッカー選手になれたんだという実感」が湧いたという。

 

なかなか試合に出られない状況が続いているが、やるべきことは大学時代に試合に出られなかった時の経験が自然と導き出してくれている。焦りも、不貞腐れることもない。決して目先にとらわれることなく、「どんな監督にも使ってもらえる選手」という自身の未来像をしっかりと見据えている。

 

「いろいろなポジションができるということもそうですし、全体的に何でもできる選手に僕はなりたい。『あの監督は使ってくれるけど、移籍したら試合に出られなくなった』とか、『監督が代わったら使ってもらえなくなった』というのではなく、誰が監督でも、常に試合に出続けられる選手になるために、毎日成長していくことが大事だと思っています」

 “成功のマインド”よりも“成長のマインド”をモットーに、この先も毎日の練習の中から何かをつかみ、己の武器へとつなげていく。