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2020.11.08

緑の分岐点 阪口夢穂選手編

 

「“ユニフォームは汚れてなんぼ”と思えるようになった転機」

 

意のままにボールを操る確かな技術と豊かなアイデア、数手先を読む圧倒的なサッカーセンス。

ピッチの中央で全体を俯瞰し、統(す)べるような存在感が異彩を放つ。

 

世界と戦えるフィジカルの基礎は、高校卒業後に入団したTASAKIペルーレFCで強化された。フィジカル強化のトレーニングが多く、FWやトップ下を主戦場とするゲームメーカーとして活躍し、代表にも定着した。

だが、飛距離の出る左右のキックやヘディングなど多彩な魅力を備えながら、球際の競り合いになると粘り強さを失い、あっさりと引き下がるように見えた。

 

「悔しくてもそれを人に悟られたくないと思っていたし、感情を表に出すのが得意ではなくて。プレーでも必死で頑張っている姿を見せるのが恥ずかしいと思っていたんです」

 

その意識が変わったのは、代表で、2列目からボランチにコンバートされた2008年のこと。当時代表を率いていた佐々木則夫監督が、大黒柱だった澤穂希のダブルボランチの相方に阪口を抜擢したことがきっかけだった。

「『澤を見てみろ、中心選手があんなに滑ってボールを泥臭く取ってるんだぞ』と佐々木監督に言われて。それから、スライディングは(積極的に)するようになりました。今は、ユニフォームは汚れてなんぼだと思っています」

 

 

2011年、なでしこジャパンがW杯で優勝した時は23歳だった。絶妙なポジショニングでパスの流れをスムーズにし、危険な場面では躊躇することなく体を投げ出し、欧米の屈強な選手たちを相手に戦い抜いた。粘り強く、一糸乱れぬ攻守を澤の隣で支えた阪口は「陰のMVP」とも言われ、12年のロンドン五輪銀メダル、15年のW杯準優勝へと続く黄金期を支えた。

 

世代交代の最中にあったベレーザからオファーを受け、新潟から加入したのはW杯優勝の翌12年。「ベレーザはパスを出したいところに誰かが必ずいて、その距離感とか、サッカー観は好きでしたね」。チームは15年から黄金期に突入。自身も17年までリーグ3年連続MVPに輝いた。

 

周りを生かすことが、自分の生きる道なんですよ」

阪口はそう言い切る。様々なスタイルや個性の中でも調和することができる理由は、その柔軟な考え方にもある。

 

「若い選手たちと話す時に『こうした方がいいよ』と伝えることはありますが、もしかしたらいいアドバイスをもらえるかもしれないな、と思って話を聞くんです。勉強になることも多いんですよ」

 

18年4月のリーグ戦で右膝を負傷してから約2年半、復帰とリハビリを繰り返す辛い時期が続いたが、以前の感覚は戻りつつある。

 

「経験や年齢もあると思いますが、若い頃のケガと違って焦りはありませんでした。今は、毎日練習ができていることが幸せです。目標とか欲は、ホンマにないんですよ。明日はどうなるかわからない、だから今日を精一杯生きて、サッカーを楽しくやることが一番だと思っています」

追求してきたのはタイトルや名声ではなく、どこまでも純粋に「サッカーを楽しむ」こと。だからこそ、阪口のプレーは「もっと見たい」という気持ちにさせる。待ちに待った完全復活の日は、遠くなさそうだ。