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2019.11.24

オフィシャルマッチデイプログラムWeb連動企画(11/24)河野広貴

最終回 河野広貴

 

 

『自分の本当の気持ちを8年間隠し続けて――。』

 

文=上岡真里江(フリーライター)

 

15日、チーム始動日。「あれ以来、初めて来たよ」というヴェルディグラウンドでの練習を終えた河野広貴は、左胸のクラブエンブレムを握り締め、「やっぱいいわ~、ヴェルディ」と、屈託のない笑顔を見せた。8年ぶりの緑のジャージ。「ずっと帰ってきたかった」。開幕当時、28歳なったヴェルディっ子は、ようやく誰の目を気にすることもなく自分の本当の気持ちを口にできた。

 

「もともと、他のクラブに行きたくなかった。(外に)出る気も全くなかった」

 

河野のヴェルディへの想いは、とてつもなく深く、そして重い。

 

実は、彼には今なお背負い続けている大きな傷がある。忘れもしない2008年。

「プロ1年目でJ1でやらせてもらったのに、(J2に)落としてしまった。もう、それだけがキツくて。どんなに他のチームがお金をくれようが関係ない。『J1に復帰させない限り出て行かない』って思ってた」

 

河野の意思は固かった。その類稀なる才能ゆえ、毎年、国内外のクラブからオファーが届いていた。だが、心が揺らいだことはない。FC東京へ移籍した時も、だ。

 

当時の公式発表では「スキルアップを第一に考えた結果」とあるが、内心は違った。「自分のステップアップはヴェルディをJ1に戻してからしかあり得ない。本当に、このクラブだけは出て行きたくなかった」

 

 

しかし、プロである以上、自分の意思だけがまかり通るものでもない。当時のヴェルディの経営問題、選手としての将来性など、様々な事情が絡み合い、「しょうがなかった。(羽生英之)社長も、『修行に行ってこい』と言ってくれたし、僕がこのクラブに何か残せるものがあればと思った。あの頃はクラブも大変だったし、僕が出ていくことが一番良かったんだよ」。21歳の生え抜きっ子はクラブを去ることで、ヴェルディへの最大の愛を示した。

 

“禁断”とも言われた、宿敵・FC東京への移籍。当然、強く請われてのものだと思われた。新体制発表会見の場でも、「東京ヴェルディから来た河野広貴です」と挨拶した彼を、青赤のサポーターは温かい拍手で迎え入れた。だが、現場は全く違っていた。そこには、想像を絶するような苦悩の日々が待っていた。

 

キャンプ早々から、扱いはかなり辛辣だった。

 

「シュート練習でみんなが外しても何もないのに、俺が外すと『腕立て100回やってろ』。みんなはフリータッチなのに俺だけダイレクトや2タッチまでと制限されるし、練習試合でドリブルして点を取ったら怒られるし。そうしたら、だんだんと前のポジションで出られなくなって、サイドバックやボランチをやらされるようになった」

 

あまりの理不尽さにランコ ポポヴィッチ監督と喧嘩もしたという。その姿に、新しいチームメイトたちは離れていった。「俺が監督に嫌われていたから、みんな、監督に嫌われるのが嫌で、誰も近寄ってこなかった。チームの中で、一人浮いていた」。

 

当然、ふて腐れた時もあった。だが、唯一救いだったのが、「メンバーには入れてくれた」こと。「途中からは、サイドバックでもボランチでも、出られればいいから黙ってやることにした」。そしてそれが、今になって思うようになったのである。

 

「ただ気に食わないという可能性もあるけど、俺に足りなかったものが守備の部分だから、J1でやるのに本当に足りないところを分からせるために後ろをやらせたのかもしれない。初めて後ろから見る景色を見て、どういうふうに守備に行ってほしいだとか、取られた後、すぐ取り返しに行ってほしいとか、コースの切り方だったり、前の選手に求めることが多々あった。それが、次の監督になってまた前をやるようになってすごく生きた。あの時はただただ俺の実力が足りなかったんだと思う。今となっては感謝している」

 

2014年、次に就任したマッシモ フィッカデンティ監督との出会いにより、もう一つの大きな分岐点に立たされた。

 

2013年5月、CEサバデル(現スペイン3部)への練習参加で高い評価を受け、熱烈な獲得オファーを受けていた河野はスペイン移籍をほぼ決断していた。しかし、最後のところでイタリア人指揮官に口説き落とされた。「必ずお前は活躍できる。だから、(東京に)残ってくれ!」と。ストレートな熱弁が心に響いた。と同時に、もう一つの心残りが欧州行きを踏み止まらせた。「ヴェルディからこのチームに来て、俺はまだ何も活躍してないのに、(外には)出られない」。これが河野広貴という男の生き方なのだ。

 

結果として、この決断は間違っていなかった。指揮官こだわりの4-3-3の布陣の中で、序盤こそあまり起用されなかったが、チームの結果が出なかったことで、フォーメーションを変更。「トップ下を作ってくれた」ことで見事にフィットし、レギュラーの座を掴んだ。「その時は、残って良かったと思った」。30試合出場6ゴールと結果も伴い、心身ともに最も充実の時を過ごした。

 

ただ、29歳になった今、あの時の選択を改めて振り返ると、「そうは思わない」が本音だ。「練習で行って、サバデルのサッカーをやってみて、本当にすごく自分に合っていた。だから、あれだけ動けたあのタイミングで向こうに行っていたら、スペインでも活躍できていたと思う。そうしたらまた、人生は違っていたのかなって。でも、昔から俺にはそこ(海外移籍へ)の欲が足りなかったよね」。

 

その後、結果として2016年の手術で足首のケガを悪化させたことを考えると、なおさら無念は残るのだろう。それでも今年、念願だった愛郷に戻ってきた巡り合わせを思えば、すべてが「良かった」と思える。8年前、羽生社長から「武者修行してこい」と背中を押されたFC東京で、多くを身につけてきた。ボボヴィッチ監督には守備を、フィッカデンティ監督には、「自分のプレーや数字より、大事なのはチームの結果」ということを教わった。そして何より、外へ出ることで“ヴェルディ独特の良さ”に気づいた。

 

それは、「若い頃の自分が、ただ攻撃だけを自由にやれていたのは『好きなようにやっていい』と言い続けてくれた偉大な先輩たちのお陰だった」こと。そして、「どのチームにも、上手くて良い選手は多いけど、ヴェルディの選手には必ずそれぞれに、必殺の“武器”がある」ということ。最後は、「“ヴェルディっぽい”って、ヤンチャでどこに行っても嫌われる(笑)」こと。体と心で体感したすべてを懸けて、「もう一度戻してくれたこのクラブに恩返しがしたい」と思った。

 

戻ってきてもっとも驚いたのが、「“ヴェルディらしさ”が薄れてしまったこと」だった。河野は、どのクラブへ行っても、常に「ヴェルディっぽい」と言われてきた。「『球際のところは絶対に負けない』、『1対1で絶対負けない』を実践する選手がいない。そういうラモス瑠偉さんや平本一樹くんなど先輩たちが残してきてくれたものがなくなってしまう気がしてもったいない。逆にいうと、そこがないと上のレベルでは戦えない。少なくとも今、日本代表でやってる(中島)翔哉や安西幸輝には、その激しさがある。だからこそ(井上)潮音や(森田)晃樹、(山本)理仁には、もう一つ要求したいかな。そこは自分がプレーでしっかりと伝えていきたい」。“時代”だとあきらめ、黙って見過ごす気はない。

 

図らずも、現役時代から親交の深い永井秀樹監督がシーズン途中で就任したことも、今後、大きな転機になっていくと確信する。「目指しているサッカーが、今までやってきた監督たちとは違う。しかも、つなぐスタイルで僕がすごくやりたかったサッカー。その中で俺は活躍したいって心底思う。このサッカーでなら、本当にJ1に上がれると思うし、永井さんはさらにその上を見ている。でも、このサッカーを自分たちがもっと勉強して理解して高め合っていけば、永井さんの目指す『J1で優勝する』ことだってできるんじゃないかなと思える」。

 

今でも時々一人、あの時の映像を見るという。2008年12月6日、東京ヴェルディ対川崎フロンターレの一戦。「あの時、(J2に)落ちなかったら……」と何度思ったことだろう。「後輩たちにずっとJ2で戦わせることになってしまった。彼らにJ1の景色を見せてあげられていないんだよ」。未だに消えぬ自責の念。だからこそ、再び訪れたこの運命的な巡り合わせでのリベンジを誓わずにはいられない。

 

「新しいファン・サポーターにも、昔から応援してくれている人にも、昔、ヴェルディにいた頃のような俺のプレーを見せたい。ヴェルディをJ1に上げるまでは辞められないよ。だから俺に期待してほしい。楽しみにしていてよ」

 

一見、熱血漢には見えない。だが、その内面には、誰よりも深く一途なヴェルディ愛がたぎっている。独特のリズムとテンポを持ち、遊び心溢れる色気あるプレーと、歯に絹着せぬ発言は、まさに“ヴェルディの象徴”。もう29歳。されど、まだ29歳。円熟期を迎える異端児のここからの進化を、歓喜とともに堪能したい。