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2021.11.25

『YOUTHFUL DAYS』vol.16 端戸仁

YOUTHFUL DAYSvol.16 端戸仁

 

プロの厳しい世界で戦う男たちにも若く夢を抱いた若葉の頃があった。緑の戦士たちのルーツを振り返る。

取材・文=上岡真里江

 

「熱しやすく冷めやすい性格」もサッカーだけは違った

 

「自分はお金で苦労した分、子どもたちには絶対にお金で苦労させたくなかった」

 

そんな父の真の親心を知ったのは大人になってからだった。8人兄弟だった父の家族は金銭的な余裕がなく、大学進学を希望するも、高校卒業とともに就職するしか人生の選択肢がなかった。同じ無念さを息子に味わわせたくなかったのだろう。端戸家の長男・仁には、幼少の頃から将来の可能性を広げられる環境が積極的に与えられた。

 

「父は僕にプロゴルファーか、プロ野球選手になってほしかったみたいで。野球をやったり、ゴルフを習わされたりしたのですが、全然ハマらなかったんです」

 

特にゴルフは、3歳の時にマイクラブを持ってレッスンに通っていたというが、結局1〜2カ月しか続かなかった。「僕は本当に熱しやすく冷めやすい性格」と自覚する中で、なぜかサッカーだけは違っていた。

 

何気ない出会いだった。小学3年生の終わり、一人で家の近くの公園で遊んでいた時のことだ。近所に住む子から突然、「サッカーにおいでよ」と声をかけられた。誘われるがまま『横浜西YMCA』へ入団。その楽しさに、すぐに虜になった。同時に抜きん出たポテンシャルも発揮されていくことになる。

小学4年生になり、いくつもあるYMCA各支部からの選抜試験を受けると、「早く高いレベルでやったほうがいいから」と、本来であれば5年生からしか入れない『横浜北YMCA』に通わせてもらえることになった。とにかくサッカーをするのが大好きで、小学校での朝休み、中休み、昼休みなど、時間さえあればグラウンドに出て、友だちとボールを蹴って遊んだ。

 

学校が終わると、YMCAの練習へ通う日々。さらにしばらくすると、今度は練習が終わった後に、もっと上の中学生クラスの練習にまで参加させてもらうほど、とにかくサッカー漬けの毎日だった。中学生クラスの練習は体格があまりに違うため、小学5年の端戸にとってかなりハードだったという。だが、成長を促すためには「逆にそれが良かったかもしれない」と、今になって感謝している。とにかく「誰よりもボールを触っている時間は多かったと思います」

 

サッカーに夢中になる一方で、父親はまた別の道を希望していた。勉学の道である。父は桐蔭学園の中学受験を望んだが、サッカーの強豪校ということもあって、端戸もこれにすっかり乗り気だった。小学6年時はサッカーよりも受験勉強に多くの時間を費やしたという。

 

だが、小学5年ですでに横浜選抜にも選ばれていた端戸の存在を、Jクラブが放っておくはずはない。地元のJクラブ横浜F・マリノスから「ぜひ、ウチのジュニアユースへ来てほしい」とのオファーを受けると、悩んだ末に承諾したのだった。

そして、横浜のアカデミーに入ったことで、その後のサッカー人生に大きな影響を与える2人の人物と出会うことになる。

 

一人目は最初のチームのコーチだった坪倉進弥氏だ。それまでは「ボールを持った時に何をするかがサッカー」だと思っていたが、その考え方が一気に覆されという。「僕は“予備動作”も知らなかったんです。でも、マリノスという上手いやつらが集まる中で、初めてボールを受ける前や、ボールがないところでの動きを学びました。それを教えてくれたのがツボさんでした。『そういうのがあるんだ』と、衝撃を受けたことをすごく憶えています」。その時に学んだ“ボールを受ける前の動き”こそ、プロになった今も「出し手が出しやすいタイミングで動く」ことに長けた端戸の根幹となっている。

 

予備動作を体で覚えていくことで、着々と上達の一途をたどった。そして中学2年の終わりに参加した嬬恋での『ジュビロカップ』で活躍し、優勝に貢献。中学2年までは試合に出られるか出られないかの微妙な立場だったが、その活躍を機に一皮むけた。「自分の中でつかめた感覚があって。そこから中学3年の1年間が、自分のサッカー人生の中でもグッと上手くなったと感じられる時期だった」。さらに、そこでU-15日本代表に選ばれたことで、その後の人生も変わっていった。

 

もう一人、欠かせないのが齋藤学(現名古屋グランパス)の存在だ。出会いは小学5年の時、選抜チームで一緒になったのが最初だったが、あまりの上手さに閉口したことを今も鮮明に憶えている。その齋藤と、マリノスでチームメイトになったのも何かの縁だろう。中学1年の頃から、多くの時間を共に過ごした。そして気がつくと、常に追いかけている自分がいた。「僕の記憶では、学は中学、高校の試合でスタメンから外れたことは一度もなかったと思う。それくらい常に試合に出ていた。その中で、自分はずっと『学に追いつきたい』『学を超えたい』という思いでやってきた。そうやって、身近に自分より上手いヤツがいて、そこを強烈に意識してプレーしていたのは、今思うと自分のサッカー人生の中ですごく大きかったんじゃないかと思います」

 

絶対的なファーストチョイスだった齋藤の相棒の座を誰にも奪われたくない。だからこそ、練習試合も含め、スタメン発表時にはいつも緊張感いっぱいで、自分以外の誰かの名が呼ばれた時は、悔しくて「次は必ず自分が…」の一心で練習した。どんな形かは分からないが、「いつかもう一度、学と一緒にやりたい」。それが、胸に秘める密かな願望だ。

 

意思を貫く情熱が、夢を叶える一番の秘訣

 

「学に離されないように」と、齋藤と切磋琢磨してきたことで、共に世代別代表の常連となっていた。その中で、自身がプロ入りを果たせた最大の要因だったと振り返るのが、2007年に開催された『FIFA U17ワールドカップ』だった。

 

「あの大会に絶対に出たいという思いは、これまでの人生で一番強かった。月に1回代表合宿があったのですが、そのメンバーに入るためにどうしたらいいか、『絶対に行きたいんだ』という意思だけは誰よりも強かったと思います。当時、城福浩さんが監督で、城福さんの“人もボールも動く”というコンセプトのサッカーがすごく面白くて、自分に合っているなと思ったのと、そこに行けば、全国の上手い奴らと一緒にやれるということがすごく楽しくて、一番のモチベーションでした」

 

その中でも「今まで出会った中で一番上手い選手」と今なおリスペクトしてやまないのが柿谷曜一朗(現名古屋グランパス)だ。彼と一緒にプレーできる喜びは格別だった。そうしたいくつものプラス要素が重なり合ったうえで、「出たい」と意識して目指した大会だったからこそ、実際にメンバーに選ばれ、あの舞台でプレーできたことが、プロへの道につながったと、今は確信している。プロを目指したい、夢を叶えたいと願う子どもたちには、「自分が何かになりたいと思ったら、その意思を持ち続けることが何よりも大事」だと伝えたいという。「その過程で絶対に苦しいことはやってくるし、挫折をして、そこで終わってしまう人もいるだろうけど、『どんなことをしてでも、自分はなるんだ!』と意思を貫く情熱が、夢を叶える一番の秘訣であり、プロの資質だと思っています」

プロになり、今年で13年目のシーズンを過ごしている。今でこそ「どんな状況になっても、自分の考え方次第で成長できると思う」と常に前向きだが、元々は、自称「めちゃくちゃ“ネガティブラー”」。横浜F・マリノスユースからトップに昇格して最初の数年は、出場機会に恵まれずに「どうせ試合に出れねーだろ、という感じだった」と明かす。

 

だが、2016年の湘南ベルマーレ移籍で当時の指揮官・曺貴裁監督(現京都サンガF.C.監督)と出会えたことで、考え方が一変した。「『あー、ダメだ』と思うことのほうが多いですが、上手くいかないにしても、自分の中でどうやったら上手くいくかを考えて、もがきまくるのが大事。そして、少し状況が良くなった時に、『しっかりと考えて良かったな』とか『あそこでこうしておいて良かったな』とか思えると、一段階成長できる」と考えられるようになった。

 

基本、熱しやすく冷めやすい性格は今も変わらないという。その中で、なぜサッカーだけは今なお飽きないのか、「自分でも分からない」とカラカラと笑う。「正直、プロになってからは、それ(サッカー)でお金をもらって生活して、というところで、苦しいことのほうが多いです」。それも本心だろう。だが、すぐに言葉を続ける。「でも、試合に勝ったり、点を取ったりした時のうれしさ以上の喜びは、おそらくサッカーをやめても、今後の人生で絶対にないと思っている。だからこそ、ヴェルディのみんなともっともっと勝ちたいし、ヴェルディで少しでも上へ行きたいというのが今、自分が思っていることのすべてです」

『日本サッカー界の父』とも言われるデッドマール・クラマー氏は言った。「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にするスポーツだ」と。端戸の歩んできた人生もまた、この言葉を如実に物語っている。